Lalique(ラリック)|香水瓶から芸術と量産をつないだガラスの仕事

透明と艶消しのガラス素材、ノギス、図面を温かな光で配した静物。「香水瓶を、美と技術でつくる。LALIQUE ラリック」の文字 香りの世界を広げる

「すべては、いつも一枚の絵から始まる。」

マルク・ラルミノー、ラリックのアーティスティック&クリエイティブ・ディレクター

香水瓶を眺めるとき、目を奪われるのは彫刻のような栓や、光を受けて浮かび上がる装飾だろう。だが、その美しさを同じ形で繰り返し作り、香水を収める容器として届けるためには、絵を描くこととは別の仕事が必要になる。金型を考え、溶けた材料を動かし、冷えた表面を磨き、栓を合わせる仕事である。

ラリック(Lalique)の香水瓶が面白いのは、この二つの仕事が重なっている点にある。ルネ・ラリックは宝飾家からガラスの製造者へ進み、息子のマルクは工場の技術を更新してクリスタルの時代を開いた。香水会社との協働で育った造形は、孫のマリー=クロードの時代に、自社の香水を包む器へとつながっていく。

ここで辿るのは、コティの事業史ではない。香りのための小さな器を入口に、芸術家が製造方法そのものを考え、量産と手仕事を結びつけてきた歴史である。

基本情報――工房、工場、香水事業の三つの時間

創設者:ルネ・ラリック(René Lalique、1860–1945年)
起点:1885年、パリでジュール・デスタップの宝飾工房を引き継ぐ。1888年には「RL」の刻印を登録し、現在のメゾンはこの年を創業の節目としている。
現在のクリスタル製造拠点:フランス、アルザス地方のウィンゲン=シュル=モデール。ヴェルリー・ダルザスは1921年に商業登記され、1922年に操業を開始した。
自社香水の出発:1992年の「ラリック ドゥ ラリック」。
公式サイト:Lalique
作品と歴史:ラリック美術館

宝飾工房の継承、ブランドの節目、アルザス工場の操業、自社香水の発売は、それぞれ別の出来事である。ラリックの香水瓶の歴史は、1992年に始まったわけではない。

ルネ・ラリック――宝飾の素材から、香水の容器へ

高価さよりも、素材が生む表現を選ぶ

ルネはフランスのアイ=アン=シャンパーニュに生まれた。ルイ・オーコックのもとで宝飾の技術を学び、パリの装飾美術学校にも通った。英国での勉学を経て、宝飾のデザイナーとして働き、1885年には自分の工房を持つ。

その仕事では、宝石の価格だけが素材の価値を決めるのではなかった。金や宝石に加え、角、エナメル、ガラスなどを組み合わせ、植物や動物、女性像を形にした。素材の色や透け方、質感が、題材を表すための選択肢になっていたのである。

1900年のパリ万国博覧会は、宝飾家としての大きな到達点となった。一方、ガラスの実験はすでに1890年ごろから始まっていた。1905年に開いたヴァンドーム広場の店にも、宝飾品とともにガラス作品が並んだ。香水瓶への転換は、ある日突然、未知の材料に出会った結果ではない。宝飾のなかで育てた素材への関心が、別の規模のものづくりへ広がっていった。

1907年の協働開始と、1908年のガラス製ラベル

フランソワ・コティとの協働について、ラリックの公式年表は1907年を起点に置く。ただし、協働が始まった年と、特定の瓶が完成した年は一致しない。

その違いがよく分かるのが「レフルール(L’Effleurt)」である。ルネが1908年に手がけたのはラベルだった。紙のものに続いてガラス製ラベルを作り、それをバカラのクリスタル瓶に熱溶融接着剤で取り付けた。

さらに1912年には、ルネ自身による瓶の形へ進む。ガラスのラベルを瓶に直接組み込み、パティナと呼ばれる着色の仕上げを施した。栓には二匹のセミが表される。1912年の所蔵作品は、瓶と栓ともに型吹きガラスである。ラベルの制作、他社製の瓶への装着、自ら設計する瓶への展開。この段階を追うと、香水の外観を一度に完成させたという単純な物語とは違う、設計の進み方が見えてくる。

香水ごとに異なる「身体」を与える

コティとの仕事ののち、ルネはウビガン、モリナール、ドルセー、ロジェ・ガレ、ウォルトなどにも瓶を設計した。ラリック美術館は、この仕事を香りに「身体」を与え、イメージを作るものとして説明している。

香水瓶では、栓が全体の印象を大きく変える。瓶の上を冠のように飾る大きな栓も、ルネの表現の一つだった。液体を収める胴と、彫刻的な栓。その役割を分けながら一つの姿へまとめることで、容器は香水の名前や世界観を目に見える形で伝えるようになる。

こうした歴史を写真で辿る入口として、LCPでは書籍『魅惑の香水瓶―コティとラリックの物語』も紹介している。そこからさらに製造方法へ目を移すと、ラリックのもう一つの仕事が現れる。

金型と特許――美しい形を繰り返し作るために

1909年の特許が解こうとした、狭い口と広い胴

ルネは1909年、パリ近郊のコン=ラ=ヴィルにあるガラス工場を借り、1913年には購入した。香水瓶の仕事は、作品を考案するだけでなく、その製造を自ら担う方向へ彼を進ませた。

1909年2月16日の特許が対象としたのは、開口部が内部の胴より狭い瓶やカラフェなどを成形する方法である。複数に分かれる型に溶けたガラスを入れ、プレスで芯を押し込んで内側の空間を作る。芯を抜いた後の開口部は、別に作ったガラスの部分を熱接合して閉じる仕組みだった。

外形の型と内側を作る芯を使うことで、装飾の細部や容器の形、容量を揃えやすくなる。図案に描けることと、同じ器として製造できることの間にある課題を、成形方法から解こうとしたのである。

この方法の具体例が「ルナリア」だ。外面にくぼみ、内面に突起を成形し、ゴウダソウの実の中の種子を表す。表に模様を付けるだけでなく、器の内側も造形に使う。その発想を工業生産へ結びつけるために、瓶をどう分け、どう接ぐかという技術が必要になった。

特許の存在と、実際の生産を分けて見る

ラリック美術館は、型による成形、吹き込み、加圧を組み合わせる技法も紹介している。香水瓶の装飾は、完成した無地の器に後から彫るものだけではない。型と材料の動かし方によって、形づくる段階から組み込むことができる。

一方、特許に記された仕組みを、そのまま広く使われた製法と考えることはできない。美術館の創設準備に携わった研究者ヴェロニク・ブリュムは、ルネが1909年から1936年に出願した15件の特許には、製造だけでなく固定、閉鎖、照明などの工夫も含まれると整理している。そのうえで、一部の複雑な技法や機械について、実際にどこまで用いられたのかを問い直している。

発明の記録は、実用の範囲を自動的には証明しない。それでも、形を描く芸術家と、形を成立させる技術者が、ルネのなかで切り離されていなかったことは伝わる。量産は完成した作品を後から複製する工程だけでなく、最初の設計から考えるべき条件だった。

マルク・ラリック――工場の更新とクリスタルへの転換

ルネの息子マルク・ラリック(Marc Lalique、1900–1977年)は、パリの装飾美術学校で学び、1922年から父と働いた。新しい製造工程を導入するため、ウィンゲン=シュル=モデールの工場にも頻繁に足を運んでいた技術者である。

アルザスの工場は、1921年の商業登記を経て1922年に生産を始めた。1945年にルネが亡くなると、マルクが事業を引き継ぎ、工場を改修・近代化する。1950年代初めには、ガラスからクリスタルへの転換を進めた。

ラリックと聞いて、現在のクリスタルをそのままルネの全作品へ遡らせると、素材の変化を見失う。ルネの香水瓶にはガラスの仕事があり、マルクは、その歴史を引き継ぎながら製造の基盤を変えた。透明な部分とサテンのような艶消し部分の対比は、クリスタルの時代にもメゾンの特徴となった。

香水との関係も続いた。マルクの作品には、ニナ リッチの「レール デュ タン」の瓶がある。香水会社との協働を、父の仕事の思い出として終わらせず、自らの技術と造形で担ったのである。

現在の職人仕事――型を出たあとにも、造形は続く

透明と艶消しを、工程の積み重ねで作る

現在のラリックでは、溶けたクリスタルを採り、プレスや吹き込みで形づくる熱間工程のあと、冷えた作品に切削、研磨などの加工を施す。型を出た段階で、表面の表情がすべて完成するわけではない。

たとえば現行の「バッカント」花瓶の製作では、熱間工程を経た作品が、サンドブラスト、切削、初期研磨、サテン仕上げ、装飾の研磨、手による署名へと進む。これは同作品の工程であり、すべての香水瓶が同じ手順で作られるという意味ではない。ただ、透明な面と艶消しの面を作り分ける仕事が、造形をどう完成させるのかが分かる。

丸い突起を並べた「モシ」花瓶では、模様を型から外す際に損なわないよう、一つひとつの配置が考えられている。目に映る装飾と、型から取り出せる形を両立させる設計は、現在の作品にも続いている。

装飾工房が守る、同じ仕上がりを作る技術

2026年のラリックのインタビューには、装飾工房を率いるアナイス・エイ(Anaïs Hey)が登場する。研磨、栓合わせ、穴あけを経験し、冷間加工の仕事を学んだ職人である。

「メゾンの所作を身につけるには、2年から3年かかります。」

アナイス・エイ、ラリック装飾工房責任者

同工房では、黒い有機顔料のビチュームによってレリーフを際立たせる技法なども受け継がれている。日々の仕事には道具の準備、前日に仕上げた作品の確認、修整、生産があり、新作ではデザイン部門とも協働する。

一度うまく仕上げることに加え、見本に沿って同じ水準を繰り返し実現することが求められる。初期の成形特許が形と細部の再現を考えたように、今日の装飾工房もまた、繰り返すための技術を磨いている。その技術は機械の設定だけで完結せず、人から人へ伝えられる。

新しい題材も、絵と素材の往復から始まる

冒頭のラルミノーの言葉は、2026年の「アリゼ」花瓶をめぐるものだ。風の動きを線や曲線へ置き換え、吹き込みのあとにサンドブラスト、サテン仕上げ、再研磨を施す。花瓶の話ではあるが、目に見えないものを器の表情で伝える仕事は、香水瓶を考えるうえでも興味深い。

「私たちは、目に見えないものを見えるようにしようとしました。」

マルク・ラルミノー、「アリゼ」について

ルネが手がけた香水瓶と現在の花瓶は、同じ製品でも同じ製法でもない。それでも、図案を材料へ移す途中で技術を選び、表面に届く光まで考えるという仕事のつながりは見えてくる。

他社の香水を包む器から、自らの香りへ

1977年には、マルクの娘マリー=クロード・ラリックがメゾンを率いるようになる。1992年に登場した自社香水「ラリック ドゥ ラリック」は、香水会社に容器を提供してきた歴史とは別の、新しい節目である。自らの名のもとで、香りと瓶の両方を送り出す仕事が始まった。

ここは、ルネが自社香水ブランドを創業した、と読み替えてはいけないところだ。香水瓶の設計者としての活動は20世紀初めに遡るが、ラリック パルファムの出発は1992年である。

現在のラリックは香水に加え、装飾品、ジュエリー、アート、インテリアなどへ活動を広げている。だからこそ、香水瓶を単なるブランドの付属品として見るだけでは、その歴史を捉えきれない。香りのために器を考えた仕事が、ガラス工場を育て、素材を変え、職人の技術を次の世代へ渡してきたのである。

瓶の表面を見るとき、模様の題材とともに、内側の空間、栓との関係、透明な面と艶消しの面にも目を向けてみたい。そこには、絵を形にする仕事と、その形を繰り返し届ける仕事の両方が残っている。

参考文献