ふとした香りで、昔の場面が浮かぶことがあります。では、実際には何も嗅がず、香りを頭の中で思い描くだけでも、自分が経験した出来事にたどり着けるのでしょうか。
Schlintlらは、18〜35歳の女性296人を対象に、匂いや景色を想像してもらうオンライン実験を行いました。知りたかったのは、どちらが多くの人に思い出を呼び起こすかだけではありません。心地よさや気持ちの高ぶりを変えると、思い出の時期や鮮明さも変わるか、という問いです。論文は2022年にオンライン公開され、2023年の『Psychological Research』に掲載されました。
具体的な香りの名前は指定しない
参加者は無作為に8つのグループに分けられ、90秒の音声を聞きました。内容は、匂いか視覚的な場面か、心地よいか不快か、気持ちを高ぶらせるか落ち着かせるか、という3つの組み合わせです。実物の香料や写真は提示していません。
この実験の工夫は、特定の花や食べ物、場所を指定しなかったことです。心地よい匂い、といった大まかな方向だけを示し、何を想像するかは本人に委ねました。同じ香りでも、その人が経験したことがあるか、どんな思い出と結びついているかは違うからです。
その後、浮かんだイメージを短い言葉で説明し、それが自分の過去の出来事に関係しているかを答えてもらいました。関係していれば当時の年齢も尋ね、子ども時代の0〜10歳、思春期の11〜17歳、成人期の18〜35歳に分類しました。鮮明さは0〜6点で評価しています。
思い出が浮かぶ割合と、鮮明さは別だった
全体では230人、約78%が、自分の経験に関係するイメージを報告しました。匂いを想像したグループでは85%、視覚的な場面を想像したグループでは70%で、統計的な差がありました。
ただし、この違いは主に、不快なものを想像する条件で現れています。不快な匂いでは85%、不快な場面では56%が思い出を報告しました。心地よい条件では、どちらも約85%です。匂いの想像が、どんな場合でも視覚の想像を上回ったわけではありません。
しかも、イメージの鮮明さは逆でした。平均点は匂いの条件で3.66、視覚の条件で4.18と、視覚のほうが高くなりました。著者らは、0〜6点の尺度で約0.5点という差が、実際の利用でどれほど重要かは別に考える必要があるとも述べています。浮かぶ人が多いことと、くっきり感じられることは、同じではないのです。
心地よい匂いと不快な匂いで、戻る時期が違う
匂いを想像した参加者のうち、子ども時代の出来事を報告した割合は、心地よい条件では20%でした。一方、不快な匂いの条件では、子ども時代の思い出はほとんど出てきませんでした。
ここで比較の相手に注意が必要です。心地よい匂いと心地よい視覚的な場面を比べた場合、子ども時代の思い出が出る割合の差は、統計的に明確ではありませんでした。「幼い頃を思い出すには、想像するなら必ず匂いが一番」とまではいえません。
不快な条件で成人期の思い出を報告した人は、匂いでは60%、視覚では37%でした。反対に、心地よい条件で思春期の思い出を報告した人は、視覚で25%、匂いで10%です。どの時期へ思いが向かうかは、感覚の種類と、その心地よさの組み合わせに左右される可能性があります。
さらに、2人の心理学者が内容を分類した探索的な分析では、不快な匂いの条件は嫌悪感に関わる出来事が多く、視覚の条件は悲しみ、不安、怒りなど、より多様でした。心地よい条件では、どちらも約90%が幸福感に関係していました。著者らは、この感情の違いも、思い出される時期の違いを考える手がかりにしています。
本人に合った手がかりを、本人がつくる
著者らが重視しているのは、研究者が決めた匂いを一律に提示する代わりに、その人自身に意味のある手がかりを生み出せる点です。何を想像するかを自由にすることで、視覚的な情報ばかりが優先されず、匂いに結びついた経験に届きやすくなったのではないか、と解釈しています。これは結果を説明する仮説であり、その仕組み自体を直接測ったわけではありません。
道具が要らないため、離れた場所にいる多くの人を対象とした研究にも使いやすい方法です。著者らはさらに、心地よい子ども時代の記憶を心理支援の資源として扱うことや、嫌悪感に関わる最近の記憶を扱う心理療法を補助する可能性にも言及しています。ただし、今回は治療を必要とする人を対象とした試験ではなく、治療効果は確かめていません。
参加者の大半は大学生で、全員が若い成人女性でした。また、測ったのは本人の報告で、思い出の内容が事実と一致するかを確認した研究ではありません。実際の匂いを嗅ぐ条件との直接比較もないため、想像が実物より優れているとは判断できません。
心地よい・不快という指示は評定に反映されましたが、気持ちの高ぶりを変える指示は、一部を除いて狙いどおりの違いを生みませんでした。今後は年齢や性別を広げるとともに、具体的な出来事がどの程度思い出されたか、細部の豊かさや思い出す努力も調べる必要があります。
まとめ
香りを実際に嗅がなくても、その人に自由に匂いを想像してもらうことで、自分の経験に結びつくイメージは多くの人に浮かびました。その現れ方は心地よさによって変わり、鮮明さでは視覚的な想像が上回りました。
この研究が開いたのは、誰にでも同じ匂いを届ける方法とは異なる、本人の経験から手がかりをつくる道です。どんな感覚を、どんな気持ちとともに思い描くか。その組み合わせを考えることが、個人的な記憶を調べ、将来の心理支援へつなげるための出発点になります。
参考文献
Schlintl, C., Zorjan, S., & Schienle, A. (2023). Olfactory imagery as a retrieval method for autobiographical memories. Psychological Research, 87, 862–871. DOI: 10.1007/s00426-022-01701-y / 原著全文(オンライン公開2022年)。原著:© The Author(s) 2022, CC BY 4.0。


