「冗談ではないのです。」
— タミー・バーンストック
1960年、映画館の観客は、画面を見るだけでなく、香りを手がかりに登場人物を見分けるよう求められた。映画『Scent of Mystery(セント・オブ・ミステリー)』で、エリザベス・テイラーが演じる女性に結びつけられた香水である。
その香水を65年後へ呼び戻したのが、2025年の展覧会「Her Scent of Mystery(ハー・セント・オブ・ミステリー)」だった。残存瓶を守り、映画と香水の資料を探り、変化してしまった液体を分析する。そして、失われた部分をどう補うのかを判断する。ここで生まれたのは、過去とまったく同じ香りであると保証された複製ではなく、資料と調香を結びつけた再構成である。
基本情報
- 対象:映画用香水「Scent of Mystery」(1960年)と、その2025年の再構成・展覧会「Her Scent of Mystery」
- 原版の調香:Raoul Pantaleoni(ラウル・パンタレオーニ)
- 共同キュレーション:Jas Brooks(ジャス・ブルックス)、Tammy Burnstock(タミー・バーンストック)
- 再構成の調香:Marissa Zappas(マリッサ・ザッパス)
- 展覧会:2025年8月14日〜9月20日、ニューヨークのOlfactory Art Kellerで開催、終了済み
- 公式資料:展覧会アーカイブ/Snivure
展覧会名と再構成品の名には「Her」が付く。1960年の映画・原版香水と、2025年にザッパスが手がけた香水は、時代も作者も区別して捉える必要がある。
映画の登場人物を見分ける香水
スメル・オー・ビジョンで、香りが物語の手がかりになる
『セント・オブ・ミステリー』が採用したSmell-O-Vision(スメル・オー・ビジョン)は、映画の進行に合わせて客席へ匂いを届ける仕組みだった。ハンス・ラウベによる嗅覚映画の技術であり、その保存対象となった装置は「Smell Brain」と呼ばれる。
香水が担ったのは、風景の雰囲気を添えるだけの役割ではない。テイラーの役、サリー・ケネディと、その身代わりの人物を区別するための手がかりになった。姿を見ただけでは解けない人物の同一性を、香りで観客へ伝える。香水は、映画の筋に組み込まれた情報だったのである。
この女性のための香りをつくったのがパンタレオーニだった。映画は1960年に公開され、香水の宣伝用ボトルはシカゴのプレミアで報道関係者や招待客に配られた。しかし、そこから継続的な一般販売へは進まなかった。
Schiaparelliとの関係は、実現しなかった販売計画にある
原版を「スキャパレリの失われた香水」と呼びたくなる理由はある。ザッパスは、箱にSchiaparelliの名が記されていたことを挙げ、同社が流通計画に関わったと考えられていることを説明している。一方、展覧会公式資料は、大手香水メゾンによる販売が構想されていた可能性を示す証拠として、慎重に位置づける。
宣伝用の実物が存在したことと、市販品として発売されたことは同じではない。この香水は商標を取得し、商品化への期待も持たれたが、一般発売には至らなかった。スキャパレリとの関係も、この実現しなかった計画の文脈に置くと分かりやすい。2025年の再構成品も、スキャパレリが発売した復刻製品ではない。
残存瓶を守る仕事から、2025年の再構成へ
ブルックスとバーンストックが保存した、装置と香水
ブルックスは、歴史的な香りの技術と現代の感覚インターフェースを研究するデザイナー、メディア考古学者である。バーンストックは、映画と嗅覚を結びつける映像制作者で、ドキュメンタリー『In Glorious Smell-O-Vision!』の共同監督も務めた。二人の関心は、古い映画の奇抜な宣伝として片づけられがちな仕組みを、研究し、再び考えられる文化資料として残すことにある。
バーンストックが「冗談ではない」と言った背景には、スメル・オー・ビジョンと聞くだけで笑い話にしてしまう反応があった。二人にとって、そこには調べるべき技術と表現の歴史がある。
2022年付の保存プロジェクト記録には、すでに装置と香水の二つが並んでいた。ラウベの装置はカルメン・ラウベのコレクションから貸し出され、ブルックスによってシカゴ大学へ運ばれた。もう一つが、映画プロデューサー、マイク・トッド・ジュニアの娘スーザン・トッドが提供した香水のサンプルである。
香水の調査には、香料会社MANE(マン)との協力も記されている。目的は分析、保存、処方の近似的な再構成、そして出自の解明だった。2025年の展覧会は、こうした継続的な保存活動の先に成立したのである。
ザッパスへ託された、過去の処方と残った液体
ザッパスへ依頼が届いたのは、本人が2025年7月に記した文章によれば、その前年だった。
「昨年、ジャスが連絡をくれて、この香りの処方を組み直してほしいと頼まれました。」
— マリッサ・ザッパス
彼女にとって、テイラーは仕事上の題材以上の存在でもあった。幼い頃から作品に親しみ、ファンレターを書き、後にはその両眼を腕のタトゥーにするほど特別な人物だった。
「彼女はいつも、自分の欲望を引き受け、それに向かって進むことに、とても長けていました。」
— マリッサ・ザッパス、エリザベス・テイラーについて
ただし、個人的な憧れだけで香水をつくり直したわけではない。パンタレオーニの原版は60の原料から成り、その残存サンプルと歴史資料が制作の足場になった。ザッパスには、消えた香水を自由に想像するのとは異なる、資料に応答する仕事が託されたのである。
劣化した香水を、どう再構成するか
分析で残ったものを調べ、失われた立ち上がりを補う
65年を経た香水は、1960年のまま時間を止めた液体ではない。展覧会では原版が酸化したサンプルであることを明示し、再構成品とともに扱った。残っている匂いをそのまま写しても、それだけで公開当時の香りを取り戻せるわけではない。
再構成には、ガスクロマトグラフィー質量分析、略してGC-MSによる化学分析が用いられた。残存液の分析と資料調査を組み合わせながら、ザッパスは原版より原料数を絞り、柑橘の立ち上がりを補うベルガモットなどを加えた。
Snivureが説明する2025年版には、白い花、アルデヒドの明るい浮き立ち、タルクを思わせる粉っぽい仕上がり、わずかなスパイスと温かみがある。ここでいうタルクは香りの印象を表す言葉であり、粉そのものを配合したという意味ではない。ベルガモットを補い、構成をやわらげ、全体の釣り合いを整えることが、再構成の具体的な判断になった。
過去の香りに近づくことと、いまの作品にすること
「私の意図は、ほんの少しだけ、身につけやすくすることでした。」
— マリッサ・ザッパス
この言葉は、再構成の性格をよく示している。原版への忠実さを目指しながら、いま香水として身につけるための調整も行う。その判断が入った以上、2025年版を1960年の完全な同一物と呼ぶより、資料に根ざした新しい解釈として捉えるほうが、制作の実態に近い。
化学分析、残存瓶、歴史資料、調香師の判断。それぞれが別の役割を持つ。分析結果だけに過去の全体像を背負わせず、逆に創作という言葉で資料とのつながりを曖昧にもしない。Snivure自身も、この香水を「コピー」ではなく、映画史を現在に呼び起こすものとして位置づけている。
香りと映画資料を並べた展覧会
原版と再構成品、香水瓶と装置の図解
展覧会では、ザッパスの香水だけを独立した新作として見せるのではなく、その成立をたどる資料も並べた。パンフレットや宣伝物、写真、ナディア・ローデンによるスメル・オー・ビジョンの仕組みを示す図像である。映画の技術、宣伝、登場人物の香水を、一つの歴史として見る構成だった。
ガラス作家マーク・エリオットが制作したフラコンも、過去と現在をつなぐ。形の手がかりになったのは、映画プレミアの冊子に描かれた原版の瓶だった。再構成品と、スーザンが提供した酸化した原版サンプルを収めるための器であり、1960年の瓶そのものではない。
一般向けの小瓶と、この特別なガラス作品も区別したい。前者は2025年版の香水を届ける製品であり、後者は原版の痕跡と現代の解釈を、ともに扱う作品である。香水の由来だけでなく、何を保存し、何を新しくつくったのかが、容器と展示にも表れていた。
「ハー・セント・オブ・ミステリー」が提示したのは、昔の香りが帰ってきたという驚きに加え、その帰還に必要だった判断である。人物を識別するために映画館へ流れた香水が、今度は資料とともに、映画の失われた感覚を考える手がかりになった。
歴史年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1960年 | 映画『Scent of Mystery』公開。パンタレオーニの香水が人物を識別する手がかりとなる。プレミアでは宣伝用ボトルを配布したが、一般発売は実現しなかった。 |
| 2022年 | ブルックスとバーンストックによる保存活動を記録。装置の記録・修復と、スーザン提供の香水サンプルの分析・保存・再構成を進める。 |
| 2024年 | ブルックスがザッパスへ再構成を依頼。本人の2025年7月の記述による。 |
| 2025年8月14日〜9月20日 | ニューヨークのOlfactory Art Kellerで「Her Scent of Mystery」開催。再構成品、原版サンプル、関連資料を展示。 |
この展覧会は終了している。2026年10月15日確認時点で、会場の公式サイトは「currently closed」と表示している。本記事は2025年の制作と展示をたどる文化記事である。
参考文献
- A Rare Smell on the Brink of Extinction — The New York Times配信記事、Oman Observer掲載、2025年8月26日。関係者発言、宣伝用ボトル、分析と再構成
- Her Scent of Mystery — Olfactory Art Keller、展覧会の趣旨・会期・制作クレジット
- Smell-O-Vision and a Ghost Perfume — Marissa Zappas、2025年7月27日。依頼の時期とSchiaparelli表記の説明
- Smell-O-Vision! conservation project — Tammy Burnstock、装置と香水の保存活動
- Her Scent of Mystery — Snivure、2025年版の再構成と香りの説明
- How to Smell Like a 1960s Film Star — April Long、The Cut、2025年9月8日。ザッパスの制作意図
- Snivure — ガラス作品の由来と、原版・再構成品の区別
- Her Scent of Mystery — Tammy Burnstock、展示資料と協働者
- Olfactory Art Keller — 会場の現況、2026年10月15日確認


