アン・フリッポ(Anne Flipo)──オレンジの花から、自由な香りを仕立てる

アン・フリッポのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル

「私の追求は変わりません。個性、インパクト、そして喜びです!」

アン・フリッポ、フレグランス・ファウンデーション、2023年

1963年、フランス・ラオン生まれ。

アン・フリッポは、必ずしも自分に決まった作風があるとは考えていません。依頼するブランドの世界へ入り込み、その言葉を香りへ変えていく。しかし、どんな仕事でも譲らないものがあります。一度嗅いだら分かる個性と、心に届く強さ、身につける喜びです。

ラルチザン パフューム(L’Artisan Parfumeur)の「ラ シャッス オ パピオン(La Chasse aux Papillons)」から、ランコム(Lancôme)の「ラ ヴィ エ ベル(La Vie est Belle)」、イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)の「リブレ(Libre)」まで。可憐な花も、大きく広がる甘さも、彼女は同じ好奇心で手がけてきました。

調香史

北フランスの庭に育った感覚

フリッポはフランス北部、エーヌ県のラオンに生まれました。幼少期の記憶には、家の庭が広がっています。四季を通じて咲く花、果樹園、ライラック、スズラン、枝を垂らす柳、テニスコートの匂い。花の香りだけでなく、その土地で過ごす時間そのものが感覚を育てました。

父の菓子店では甘い匂いを覚え、祖母からは料理ともてなしの楽しさを受け取ります。母の存在も欠かせません。

「最初の香りの記憶は母の匂いです。母は強い香水をたくさん使っていましたが、母自身の自然な匂いも覚えています。」

アン・フリッポ、パフューム・ソサエティのインタビュー

家族が愛用した香水には、意外にもアメリカの作品が多くありました。母と叔母のエスティ ローダー(Estée Lauder)の「エスティ(Estée)」や「ユース デュウ(Youth-Dew)」、姉の「アリアージュ(Alliage)」「シナバー(Cinnabar)」、レブロン(Revlon)の「チャーリー(Charlie)」。小さな町の香水店が、遠い国の香りへの入り口になっていたのです。

そして15歳の頃、オレンジの花に出会います。本人は、その香りを甘く力強く、爽やかさと豊かさが同居するものとして記憶しています。友人宅の温室で感じた花の印象は、後年も繰り返し戻る題材になりました。

食品の香りを学ぶつもりが、調香師の道へ

両親が勧めたのは、工学系の学校へ進むための準備課程でした。フリッポが選んだのは、ヴェルサイユの香料学校イジプカ(ISIPCA)です。当時の課程では食品香料、化粧品、香水を学び、最初は食品や飲料の風味を作るフレーバリストを考えていました。

ところが、精油を嗅ぎ、香料を組み合わせるうちに、関心は香水へ移っていきます。原料で遊ぶことが、ゲームのようでもあり、挑戦のようでもあった。香料会社での研修を経験すると、この仕事が自分に向いているという感覚は、さらに強くなります。

「当時、女性であることでこの道は難しくなる、と言われました。それで逆に、いつか調香師になるという確信が強まりました。私はある意味、頑固なのです。」

アン・フリッポ、エヴァーフュームドのインタビュー

学校で学んだのは、原料を丁寧に嗅ぎ、評価するための基礎でした。本当の訓練は、現場の調香師と仕事をするようになってから始まったといいます。重要な師に挙げるのは、ジャン=ルイ・シュザック(Jean-Louis Sieuzac)とミシェル・アルメラック(Michel Almairac)です。

初期にはドレール(De Laire)、フロラシンス(Florasynth)、クレアシオン・アロマティック(Créations Aromatiques)などの環境で経験を積みます。その後、シャラボ(Charabot)での仕事を通じ、ラルチザン パフュームとの関係が生まれました。香料の使い方だけでなく、依頼を受け取って作品を仕上げる力を、現場で磨いていきます。

イフで広がった、共同創作の可能性

2004年、フリッポはイフ(IFF/International Flavors & Fragrances)に入社します。そこにはジョゼフィン・カタパノ(Josephine Catapano)やソフィア・グロスマン(Sophia Grojsman)といった、先に道を切り開いた女性調香師がいました。

本人にとって大きかったのは、自分の個性を受け止めてもらえること、そして複数の調香師で作る文化です。共同制作では自分の案を守るだけでなく、相手の案を嗅ぎ、違う見方を受け入れなければなりません。好奇心、正直さ、敬意。その姿勢が、後の大きな仕事につながりました。

2010年のパコ ラバンヌ(Paco Rabanne、現ラバンヌ)の「レディ ミリオン(Lady Million)」、2012年のラ ヴィ エ ベル、2013年の「インビクタス(Invictus)」、ジバンシイ(Givenchy)の「ランテルディ(L’Interdit、2018年)」、そしてリブレ。フリッポの仕事は、ニッチブランドの花の表現から、世界へ届く香水へと広がっていきます。

副社長級調香師への昇格は2008年とするプロフィールがあります。その後、2019年2月にはマスターパフューマーの称号を授与されました。イフが2013年に設けたこの称号では5人目、女性としては初めてです。これは香水業界全体で女性初という意味ではなく、同社の称号についての記録です。

「イフは、自分自身でいられる場所を与えてくれました。恐れを手放し、自分が何者かを受け入れ、自立を見つけることができたのです。」

アン・フリッポ、イフのマスターパフューマー就任発表、2019年

受賞歴も重なります。2014年にコスメティック・マガジン(Cosmetique Magazine)の年間最優秀調香師賞、2016年にシーイーダブリュー・フランス(CEW France)の創作部門アチーバー賞、2022年にはフランソワ・コティ栄誉賞(Prix d’Honneur François Coty)を受賞しました。

2023年には米国のフレグランス・ファウンデーション(The Fragrance Foundation)から、生涯功績賞が贈られます。授賞式は6月15日、ニューヨークのリンカーンセンターで行われました。なお、2019年の同財団の女性用プレステージ部門賞は、彼女個人への生涯功績賞ではなく、ジョー マローン ロンドン(Jo Malone London)の「ハニーサックル&ダバナ(Honeysuckle & Davana)」という作品への賞です。

一つの花から、千の違いを引き出す

フリッポの処方は、まず心の中に強いアイデアを持つところから始まります。直感的な出発点を、原料の知識と構造で支える。本人が「自分に決まった作風はない」と話すのも、何も特徴がないからではありません。依頼ごとに、同じ原料の違う顔を見つけることを大切にしているのです。

「オレンジの花は、決して飽きることのない素材です。それを中心に千もの香水を作っても、同じことの繰り返しにはならないでしょう。」

アン・フリッポ、エヴァーフュームドのインタビュー

蒸留によるネロリの清々しさと、オレンジブロッサム・アブソリュートの蜂蜜のような厚み。同じ花から得られる違いが、彼女の表現を広げます。クロエ(Chloé)の「ラブストーリー(Love Story、2014年)」では明るい花の印象、ランテルディでは白い花の官能性、リブレではラベンダーとぶつかり合う豊かさへ。同じ花であっても、その役割は一定ではありません。

もう一つの軸は、グリーンノートです。バジル、カシスの芽、葉や茎の印象。花だけを取り出さず、そこにある緑や湿り気まで組み込むところに、北フランスの庭の記憶が見えてきます。

ラ シャッス オ パピオン──花を重くしないという選択

1999年のラ シャッス オ パピオンは、日本語にすれば「蝶を追いかけて」。オレンジの花、ジャスミン、チュベローズに、菩提樹の花を思わせる軽やかさが重なります。

白い花の香水は、濃密さや夜の官能性とも結びつきます。しかしこの作品では、花の間に空気が通っています。庭を歩いたとき、すべての花が一度に近づくのではなく、風の向きに合わせて匂いが届く。そのような明るい感覚が、この作品の魅力です。

後に大きな甘さを持つ作品や、力強いラベンダーの香りを作る人が、繊細な花の作品も持っている。フリッポの幅を知るために、欠かせない一本です。

ラ ヴィ エ ベル──喜びを、はっきりと伝える

2012年のラ ヴィ エ ベルは、オリヴィエ・ポルジュ(Olivier Polge)、ドミニク・ロピオン(Dominique Ropion)との共同制作です。「人生は美しい」という名前の通り、喜びを分かりやすく香りへ変える仕事でした。

アイリスとパチョリに、プラリネやバニラ、トンカビーンを思わせる甘さを重ねます。アイリスの粉っぽく上品な表情と、食べ物を連想させる温かさ。その組み合わせが、親しみやすさと華やかさを同時に支えています。

10周年を伝えるアスパイア・ライフスタイル誌では、開発に3年、5,521回の試作を要したと紹介されています。ジュリア・ロバーツ(Julia Roberts)を起用した広告でも広く知られるようになり、フリッポ自身も共同制作者とともに誇りを持つ作品として挙げています。

リブレ──フジェールを、女性のために仕立て直す

2019年、マスターパフューマーへの選出と、リブレの処方採用を同じ日に知らされたと、フリッポは話しています。一本の作品への評価と、それまでの歩みへの評価が重なる瞬間でした。

出発点は、古典的な男性用香水に用いられてきたフジェールを、女性向けに捉え直すという依頼です。フリッポが最初の案を考え、カルロス・ベナイム(Carlos Benaïm)に協働を求めました。パリとニューヨークでそれぞれ処方を作り、その都度よい案を選んで次の出発点にします。

「パリとニューヨークの間で作った、本当の四つの手による創作でした。大西洋の両側で育てた、美しい共同作業の実りです。」

アン・フリッポ、エヴァーフュームドのインタビュー

本人によれば、開発期間は7年、試作は1,750回以上。フランス産ラベンダーと、ベナイムが提案したモロッコのオレンジブロッサムを組み合わせます。ラベンダーの清潔さや乾いた輪郭に、花の豊かさと甘さを入れ、構造の印象を変えていきました。

フリッポは、その仕事をイヴ・サンローランが女性のためにタキシードを仕立て直したことに重ねています。既存の男性性を捨て去るのでなく、その構造をどう着こなし直すか。リブレという「自由」の名前は、作品の発想そのものに結びついています。

シンセティック ジャングル──自然を描くための、合成香料

2021年、フレデリック マル(Frédéric Malle)から「シンセティック ジャングル(Synthetic Jungle)」が生まれます。後に「シンセティック ネイチャー(Synthetic Nature)」と改称された作品です。

ブランドを率いたフレデリック・マルとフリッポは、エスティ ローダーの「プライベート コレクション(Private Collection)」など、かつてのグリーン香水を見直すところから始めました。懐かしい香りの復刻ではなく、緑の表現を現代の処方で作り直す試みです。

鍵となったのはスズランでした。ガルバナムやバジル、カシスの緑に花の立体感を与え、パチョリとオークモスが湿った暗がりを支えます。

「処方をとても短くすることが、私には重要でした。いくつかの原料を大胆に使い、カシスと花の表情を多くし、ベースの量はそれほど増やさない。構造はとても現代的です。」

アン・フリッポ、パフューム・ソサエティ掲載のフレデリック・マルとの対談、2021年

少ない原料で控えめに作る、という意味ではありません。必要なところへ量を集中させ、何を感じる香りなのかを明確にする。「少ないほうが豊か」という彼女の考えは、力強い緑の香りにも働いています。

また、天然の匂いを再現するために合成香料が必要になるという逆説は、マル自身が名称の意図として説明したものです。フリッポの発言と混同せず、二人が共有した創作の背景として受け取ると、作品をより理解しやすくなります。

自分が教わったことを、次の調香師へ

近年の仕事には、バスティーユ(Bastille)の「プレーヌ リュンヌ(Pleine Lune、2022年)」や、エッセンシャル パルファン(Essential Parfums)の「ネロリ ボタニカ(Néroli Botanica、2024年)」があります。前者はポール・ゲラン(Paul Guerlain)との共作で、チュベローズを中心にした香りです。

バスティーユでは、高い天然由来比率という条件も創作の一部になりました。原料の選び方に新しいルールが生まれれば、それに応じて組み合わせを考える。花の香りを長く作っていても、挑戦の形は変わり続けます。

「アン・フリッポの弟子になれたのは、この上ない幸運でした。彼女には多くを負っています。知識を伝えてくれ、私の力を引き出してくれました。」

ポール・ゲラン、バスティーユ公式インタビュー、2023年

フリッポは、自分の名前が歴史に残ることよりも、若い調香師が自分らしさを見つける手助けをしたいと語っています。学校のあと、現場の師たちによって学びを深めた人が、次の世代には教える側として関わる。作品だけでなく、その学び方も受け継がれています。

ちなみに…

フリッポには、考えるための独特のリズムがあります。寝る前に進行中の仕事を思い浮かべ、朝になると次に試したいことが分かる。本人は「眠りながら処方を考える」と表現しています。出社後に修正案をコンピューターへ入力し、アシスタントに調合を依頼するそうです。手書きの思考を好むことと、デジタルで案を共有することは両立しています。

昼食は一人で、いつもの場所でサラダを。午後2時から4時には、画面を離れて雑誌を眺めたり、窓の外の庭を見たりする時間を設けると話しています。北フランスの自宅にも仕事場を持ち、静かに考える環境を大切にしています。

愛用する香水にはゲラン(Guerlain)の「ルール ブルー(L’Heure Bleue)」があります。最初に自分で買ったのは同じゲランの「パリュール(Parure)」、最初に贈られたのは「シャマード(Chamade)」でした。

ジョー マローン ロンドンのボトルの端正さを好み、歴史上の人物に香水を作るなら、英国らしさへの関心からウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)を挙げています。一方、苦手な匂いとしては鳩を挙げたこともあります。さまざまな香料の匂いには慣れていても、それだけは別なのだそうです。

調香作品

代表作と初期作品をまとめました。オードパルファムとオードトワレはそれぞれEDP、EDTと略記します。共同作者は資料の記録に基づき、「—」は単独制作を保証する意味ではありません。

年 ブランド 作品名 共同調香師
1994 ラウラ ビアジョッティ(Laura Biagiotti) ラウラ(Laura) —
1999 ラルチザン パフューム ラ シャッス オ パピオン —
2000 ラルチザン パフューム ウイエ ソヴァージュ(Œillet Sauvage) —
2000 ラルチザン パフューム ジャサント デ ボワ(Jacinthe des Bois) —
2000 ラルチザン パフューム ヴェルト ヴィオレット(Verte Violette) —
2002 トラサルディ(Trussardi) スキン(Skin、女性用) —
2003 ソニア リキエル(Sonia Rykiel) リキエル ウーマン(Rykiel Woman) —
2003 トラサルディ ジーンズ フォー ウィメン(Jeans for Women) —
2004 ロシャス(Rochas) プペ(Poupée) —
2005 ラルチザン パフューム フルール ドランジェ(Fleur d’Oranger、2005年版) —
2005 アレキサンダー・マックイーン(Alexander McQueen) マイ クイーン(My Queen) ドミニク・ロピオン
2006 ラルチザン パフューム フルール ド ナルシス(Fleur de Narcisse 2006) —
2006 イヴ・サンローラン ロム(L’Homme)EDT ピエール・ワルグニー(Pierre Wargnye)、ドミニク・ロピオン、ジュリエット・カラグゾグル(Juliette Karagueuzoglou、資料により併記)
2007 ラルチザン パフューム フルール ドランジェ(2007年版) —
2007 ジバンシイ ヴェリィ イレジスティブル フレッシュ アティチュード(Very Irrésistible Fresh Attitude) ピエール・ワルグニー
2007 ブシュロン(Boucheron) ミス ブシュロン(Miss Boucheron) ドミニク・ロピオン
2008 ランバン(Lanvin) ジャンヌ ランバン(Jeanne Lanvin) —
2008 ジバンシイ アブソリュートリー イレジスティブル(Absolutely Irrésistible) —
2008 ロシャス ソレイユ ド ロシャス(Soleil de Rochas) 作者の記録に資料差あり。ジャン=ミッシェル・デュリエ(Jean-Michel Duriez)作とする資料もあります
2009 イヴ・サンローラン ラ ニュイ ド ロム(La Nuit de L’Homme)EDT ドミニク・ロピオン、ピエール・ワルグニー
2010 パコ ラバンヌ レディ ミリオン EDP ドミニク・ロピオン、ベアトリス・ピケ(Béatrice Piquet)、ブルーノ・ジョヴァノヴィック(Bruno Jovanovic)
2010 ジョルジオ・アルマーニ(Giorgio Armani) アクア ディ ジョイア(Acqua di Gioia)EDP ロック・ドン(Loc Dong)、ドミニク・ロピオン
2012 ランコム ラ ヴィ エ ベル EDP オリヴィエ・ポルジュ、ドミニク・ロピオン
2012 イヴ・サンローラン マニフェスト(Manifesto)EDP ロック・ドン
2013 バーバリー(Burberry) ブリット リズム(Brit Rhythm、男性用)EDT ドミニク・ロピオン、オリヴィエ・ポルジュ
2013 パコ ラバンヌ インビクタス EDT ヴェロニク・ニーベルグ(Véronique Nyberg)、オリヴィエ・ポルジュ、ドミニク・ロピオン
2014 クロエ ラブストーリー EDP —
2015 ジミー チュウ(Jimmy Choo) イリシット(Illicit)EDP —
2015 パコ ラバンヌ オリンピア(Olympéa)EDP ロック・ドン、ドミニク・ロピオン
2016 ジョー マローン ロンドン ハーブ ガーデン コレクション(Herb Garden Collection、5作品) —
2016 ジョー マローン ロンドン バジル&ネロリ(Basil & Neroli)コロン —
2018 ジバンシイ ランテルディ EDP ドミニク・ロピオン、ファニー・バル(Fanny Bal)
2018 ジョー マローン ロンドン ハニーサックル&ダバナ コロン —
2019 イヴ・サンローラン リブレ EDP カルロス・ベナイム
2020 イヴ・サンローラン ロム ル パルファム(L’Homme Le Parfum) —
2021 フレデリック マル シンセティック ジャングル EDP(後のシンセティック ネイチャー) —
2022 バスティーユ プレーヌ リュンヌ EDP ポール・ゲラン
2024 エッセンシャル パルファン ネロリ ボタニカ EDP —

参考文献