化学物質の匂いに触れると、頭痛やだるさ、鼻やのどの不快感などが生じ、日常生活に支障が出る人がいます。その症状を説明する仕組みの一つとして、鼻などの上気道で、免疫反応が過剰に起こる可能性が考えられてきました。
Dantoftらが2015年に発表した研究は、化学物質過敏症、英語でMultiple Chemical Sensitivity、略してMCSの基準を満たす人と健康な対照者を比べました。調べたのは、匂いによって症状が出る状況で、鼻の粘膜表面にある炎症関連の物質にも、特徴的な変化が現れるかという問いです。
18人と18人に、同じ条件で匂いを提示する
参加者は、スウェーデンの地域の広告などを通じて募集されました。MCS群は18人で、半年以上続く症状があり、複数の異なる化学物質への曝露で症状が生じ、曝露がなくなると軽くなることなど、研究で定めた基準を満たしていました。日常生活への大きな支障も条件に含まれています。
健康な対照群も18人でした。この群は、低濃度の化学物質による症状や回避行動を報告していない人たちです。両群とも、喫煙などの除外条件を設け、使用する匂いを感知できることを事前に確かめました。
使ったのは、市販の香水や洗剤ではなく、n-ブタノールという単一の物質です。事前の試験で、MCSの人に症状を起こしうる刺激として選ばれました。参加者は、濃度を管理した小さな実験室内に座り、空気中の物質に全身で曝露されました。
匂いは分かるが、通常の刺激感の閾値より低い濃度
設定濃度は3.7 ppmでした。論文では、匂いを検知できる濃度を上回る一方、先行研究で報告された感覚的な刺激の閾値より低い濃度と説明されています。これは、すべての人に症状が出ないと保証する数値ではありません。
最初の10分間は、参加者に知らせずにn-ブタノールを入れない状態にしました。その後、濃度を徐々に上げ、約8分で設定濃度に達し、残り42分間はその濃度を維持しました。全体で約1時間のセッションです。
ただし、別の日に無臭の空気だけを同じ手順で提示し、どちらか分からないように比較する条件はありませんでした。最初に無臭の時間があることと、独立した盲検の対照条件があることは異なります。
鼻の表面の液から、19種類の指標を測る
研究チームは、鼻の中に小さな吸収材を当て、粘膜表面の液を集めました。採取は、曝露前、セッション終了後15分以内、終了4時間後の3回です。36人から計108検体が得られました。108人を調べたわけではありません。
測定したのは、19種類のサイトカインやケモカインです。これらは免疫に関わる細胞の間で情報を伝えたり、細胞を呼び寄せたりする物質で、炎症を進めるものだけでなく、反応を調整するものも含まれます。
液の量や濃さの違いを考慮するため、各指標は検体に含まれる総たんぱく質の量で調整しました。一つの指標だけでなく、複数の免疫反応に関わる物質をまとめて調べた点が特徴です。
症状の違いはあったが、指標の群間差は見つからなかった
同じ曝露実験の症状や生理反応は、別の論文ですでに報告されていました。MCS群は対照群より匂いを強く、不快に感じ、症状も強く評定しました。脈拍や、その間隔の変動にも群の違いが報告されています。今回の論文は、別の人での追試ではなく、その実験で採った鼻の検体を調べたものです。
一方、鼻の19種類の指標では、曝露前から両群の間に統計的に有意な差は見つかりませんでした。曝露終了後と4時間後も、各指標について、MCS群と対照群の有意な差はありませんでした。
時間とともに何も変わらなかったわけではありません。一部の指標は、両群で後の時点に低下していました。ただし、全体として、MCS群だけに特徴的な炎症関連物質の放出が見られたとは判断されませんでした。
どの仮説を見直す手がかりになったのか
著者らが検討したのは、鼻などの上気道で過剰な炎症反応が起こり、その反応が全身の症状につながる、という説明です。先行研究では、MCSの人の血液中で、一部の免疫関連物質の違いが報告されていました。その出発点が上気道にあるのではないか、という問いでもありました。
もし鼻でこれらの物質が多く放出され、血液へ移ったり、別の経路を介して全身の反応を促したりするなら、症状が出る場面で鼻の指標にも特徴的な変化が期待されます。今回、そのような群間差は見つからなかったため、著者らは、この条件での症状を上気道の局所炎症から説明する見方は支持されにくいと結論づけました。
また、過去に報告された血中指標の違いも、上気道の過剰な炎症を出発点とする説明では捉えにくい、と解釈しています。ただし、今回の主測定は鼻の液です。血液中の変化を同時に測って、その由来を追跡した研究ではありません。
症状の存在と、一つの仕組みの検証は別の問い
この結果は、症状がなかったという意味ではありません。実際、MCS群では症状の訴えが強くなっていました。また、測った指標に群間差がないことだけから、すべてが心理的な原因だと判断することもできません。
対象は各群18人と少なく、症状の出方にも個人差があります。19種類の指標と三つの採取時点だけでは、短い時間だけの反応や、別の場所・別の物質が関わる変化を捉えられない可能性があります。測定中の全身の免疫が、あらゆる点で正常だと確かめたわけでもありません。
著者らも、独立した盲検の無臭条件があれば、曝露自体の作用と、予想される不快感やストレスの影響を、より詳しく検討できたと述べています。こうした機序を区別する追加研究が必要です。
さらに、単一物質を短時間提示した結果を、そのまま実際の香水、洗剤、複数の物質が混じる環境へ広げることはできません。この実験は、特定の製品の安全性や、個人の治療方法を判定するものではありません。
まとめ
MCSの基準を満たす人に症状が生じるn-ブタノール曝露でも、今回測った鼻の19種類の炎症関連指標には、健康対照群との有意な差が見つかりませんでした。症状があることと、想定した局所炎症の仕組みが確認できることは、同じではありませんでした。
この研究の意味は、症状を否定することではなく、その原因候補の一つを、具体的な場所と指標で確かめたことにあります。上気道の炎症から全身の反応が始まるという説明を見直し、ほかの経路や条件も含めて検証を進めるための手がかりを示しています。
参考文献
Dantoft, T. M., Skovbjerg, S., Andersson, L., Claeson, A.-S., Lind, N., Nordin, S., & Brix, S. (2015). Inflammatory Mediator Profiling of n-butanol Exposed Upper Airways in Individuals with Multiple Chemical Sensitivity. PLOS ONE, 10(11), e0143534. DOI: 10.1371/journal.pone.0143534 / 原著全文。原著のライセンス:CC BY。


