ロック・ドン(Loc Dong)──故郷の植物の記憶を、世界の香りへ

ロック・ドンのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル

「医者になることも、香水を作ることも、似ています。本質は、人をより幸せにすることなのです。」

ロック・ドン、エル・ベトナムのインタビュー、2016年

1972年、南ベトナムのサイゴン、現在のホーチミン市に生まれる。

薬草医だった祖父の手伝いをしながら、植物を匂いで覚えた少年がいました。のちにアメリカで薬学を学んだロック・ドンは、香料研究室の仕事を通して、幼い頃に親しんだ草木への愛情を思い出します。

「ユーフォリア」「アクア ディ ジョイア」「オリンピア」。世界的なブランドの作品にも、本人は故郷ベトナムの面影があると語っています。自然の素材と合成香料、親しみと違和感。異なるものを組み合わせる感性は、国や文化を越えて歩んできた人生と結びついています。

調香史

祖父から教わった、植物の見分け方

ドンはサイゴン周辺で育ちました。人物紹介では、市街から約30キロ北の村で暮らしたとされています。

祖父は、村の人々のために薬を調合する薬草医でした。ドンも6歳頃から手伝い、薬草や植物を匂いで見分け、採取し、分類する方法を教わります。後年、パルファムプラス誌で、その時間をこう振り返りました。

「祖父と育ったことは、今の私を形作る大きな部分になっています。」

ロック・ドン、パルファムプラス掲載の本人の言葉より

植物を図鑑の知識として覚えるだけではありません。手に取り、嗅ぎ、誰かの役に立つものとして扱う経験でした。熱帯の草木に親しんだこの時期は、ドンの香料の捉え方の土台になったと、所属会社の紹介でも説明されています。

11歳のとき、ドンはベトナムを離れてアメリカへ渡りました。紹介記事には、単身で故郷を離れ、マレーシアの難民キャンプを経由したと記されています。少年期から、生活する土地と言語、文化が大きく変わる経験をしたのです。

薬学を学ぶ学生が、香りへ戻るまで

アメリカでドンが選んだのは、薬学の道でした。その在学中に、香料研究室でアルバイトをする機会を得ます。

研究室で出会った匂いは、祖父と過ごした頃の植物の記憶を呼び戻しました。本人はエル・ベトナムで、草木の匂いへの初恋を思い出したという趣旨で語っています。

医療と香水という進路は、外から見れば大きく違うものに見えます。しかし本人にとっては、人をより幸せにするという目的でつながっていました。冒頭の言葉は、香りを美しく仕上げることの先に、その香りを使う人を見ていることを伝えています。

1992年、ハーマン&ライマー(Haarmann & Reimer)で本格的な調香のキャリアを始めます。エス パフューム(S-Perfume)のプロフィールでは、グラース、ニューヨーク、パリ、ドイツで訓練を受け、クレアシオン アロマティーク(Créations Aromatiques)でも学んだと紹介されています。

ハーマン&ライマーからアイ・エフ・エフへ

ハーマン&ライマーで約10年間、技術と実務を積んだドンは、2002年にアイ・エフ・エフ(IFF)へ移ります。ニューヨークとパリを拠点に、およそ20年間にわたり活動しました。

ドミニク・ロピオン(Dominique Ropion)、ソフィア・グロスマン(Sophia Grojsman)、カルロス・ベナイム(Carlos Benaïm)らから支援や指導を受けたことが、人物紹介で伝えられています。その中でもロピオンやベナイムとは、実際の代表作で共同調香を重ねました。

2001年にはスティーブ・デメルカード(Steve DeMercado)と、マーク・ジェイコブス(Marc Jacobs)の最初の女性向け香水を制作。アイ・エフ・エフ時代には、エリザベス アーデン(Elizabeth Arden)、カルバン クライン(Calvin Klein)、ジョルジオ アルマーニ(Giorgio Armani)などへ仕事が広がります。

デザイナーブランドだけでなく、マライア・キャリー(Mariah Carey)、ブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)、ビヨンセ(Beyoncé)らの香水も手がけました。異なる人物像を香りとしてまとめる力が、幅広い仕事につながっていきます。

シムライズで始まる新しい旅

2023年、ドンはマスターパフューマーとしてシムライズ(Symrise)のファインフレグランス部門へ移籍します。パリとニューヨークの制作チームに加わり、国際的なプレステージブランドの仕事に携わる役割を担いました。

ハーマン&ライマーは、のちにドラゴコ(Dragoco)と統合してシムライズとなった会社です。新しい役割への移籍であると同時に、キャリアの出発点とのつながりも持つ選択でした。

就任に際し、ドンは自身をこう表現しています。

「私は生来、探検家であり、リスクを取る人間です。出会う人々、文化、人生の経験からインスピレーションを得ます。調香師としての私の責任は、作品を通して何か新しいものをもたらすことです。」

ロック・ドン、シムライズ入社時の声明(パフューマー&フレーバリスト掲載、2023年)

同社のクリエイション責任者ヴェロニク・フェルヴァル(Véronique Ferval)は、ドンの香りが、生々しい自然の感覚と、概念的で抽象的な視点を併せ持つと評しました。

植物に親しんだ幼少期と、現代の香料技術は、ドンの中では離れたものではないのでしょう。両方を組み合わせたときに生まれるエネルギーが、創作を前へ進めています。

シンプルで、欠けるもののない香り

制作手法を尋ねられたドンは、エル・ベトナムで「シンプルだが、完全なもの」と説明しています。本人が例えに使ったのは旅でした。

「出発するには、どこへ向かうのか、どんな土地を探りたいのかを決める必要があります。その後の冒険は、予期しない分かれ道に満ちています。一歩進むことが、次の一歩の土台になります。強い着想に動かされて香りを作り始め、直感が『ここだ』と告げるまで試し続けるのです。」

ロック・ドン、エル・ベトナムのインタビューより(2016年)

シンプルという言葉は、手間をかけないという意味ではありません。出発点を明確にし、試作の中で変化を受け入れながら、必要なものが一つの香りに収まる地点を探す。それが、ドンの語る完全さです。

エス パフュームの紹介によれば、ドンはあまり一般的でない素材にも関心を持ち、周囲にも原料を違う角度から考えるよう促すといいます。自然の植物に親しむ一方、合成香料の使い方も革新的だと評されてきました。

故郷が作品にどう現れるかを尋ねられると、本人は次のように答えています。

「私の香水には、どれにもベトナムの面影が漂っています。自分のルーツが原料への違う感覚を与え、対立するものを組み合わせることを好きにさせました。自然と化学、嫌われる香りと好まれる香り、柔らかさと激しさ、異質さと親しみやすさの調和です。」

ロック・ドン、エル・ベトナムのインタビューより(2016年)

故郷の植物をそのまま瓶に閉じ込めるだけではなく、素材同士の対比や組み合わせ方にも、個人的な経験が表れているのです。

代表作とその背景

ユーフォリア──共同制作から生まれた転機

カルバン クラインの「ユーフォリア(Euphoria、2005年)」は、ベナイム、ロピオンとの共同調香です。人物紹介で繰り返し挙げられる、ドンの重要な成功作になりました。

果実のジューシーさと、深い花の印象、アンバーや木の温かさを組み合わせています。明るくわかりやすい魅力を持ちながら、肌に残る部分には深さがある。ドンが得意とする対比を、大きなブランドの香水として届けた作品です。

その後も「ユーフォリア メン(Euphoria Men、2006年)」や「ユーフォリア ブロッサム(Euphoria Blossom、2006年)」など、シリーズに関わっています。

アクア ディ ジョイア──水の印象と植物の明るさ

ジョルジオ アルマーニの「アクア ディ ジョイア(Acqua di Gioia、2010年)」は、アン・フリッポ(Anne Flipo)、ロピオンとの共同制作です。

清涼な印象を持つアクアティックな香りとして知られ、ドンの経歴を代表する作品の一つに数えられています。ユーフォリアの濃密さとは違う、自然の開放感を感じさせる方向にも、彼の仕事は広がりました。

マニフェスト──花とバニラの存在感

イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)の「マニフェスト(Manifesto、2012年)」では、フリッポと共同調香しました。花の印象に甘く温かい余韻を持たせ、強い存在感を作り出した作品です。

のちに「マニフェスト レリクシール(Manifesto L’Élixir、2013年)」「マニフェスト ル パルファム(Manifesto Le Parfum、2015年)」へと発展します。一つの発想を、濃度や香りの重心を変えながら展開する仕事も、ドンのキャリアの大切な部分です。

オリンピア──祖母が干していた塩

パコ ラバンヌ(Paco Rabanne、現ラバンヌ)の「オリンピア(Olympéa、2015年)」は、フリッポ、ロピオンとの共同制作です。女神を思わせる女性像と、塩気のあるバニラのアコードを組み合わせました。

この塩気には、ドンの幼少期の記憶が関わっています。

「この香水には、塩の印象が強くあります。ギリシャ神話の聖なる山の頂に立つ女神のように、魅惑的で力のある女性のための香りです。そのきっかけは、昔、祖母がよく裏庭で塩を干していたことでした。」

ロック・ドン、エル・ベトナムのインタビューより(2016年)

塩そのものを香水の原料として嗅がせるという意味ではなく、塩気を連想させる香りの表現です。遠い土地の神話を描く作品の中に、祖母の庭というごく身近な記憶が重なっています。

オリンピアは「オリンピア アクア(Olympéa Aqua)」「オリンピア インテンス(Olympéa Intense)」「オリンピア レジェンド(Olympéa Legend)」などへ展開しました。

ファントムとミリオン ゴールド フォー ハー

2021年のラバンヌ「ファントム(Phantom)」では、フリッポ、ロピオン、ジュリエット・カラグーゾグロウ(Juliette Karagueuzoglou)と共同制作しています。ラベンダー、レモン、バニラなどの親しみやすい要素を、現代的な印象へ組み立てた作品です。

2024年の「ミリオン ゴールド フォー ハー(Million Gold for Her)」では、アリエノール・マスネ(Aliénor Massenet)、ナタリー・ベナロー(Nathalie Benareau)、スージー・ル・エレー(Suzy Le Helley)と協働。2025年にはパルファム版も登場しました。

長年の協働者との仕事に加え、新しい世代や違う背景を持つ調香師とも、一つの香りを作り上げています。

業界の中での位置づけ

ドンは専門媒体で、国際的なファインフレグランスの世界で成功したアジア出身の先駆的な調香師として紹介されています。媒体によっては、業界初のアジア人ファインフレグランス調香師と呼ばれることもあります。

この表現は、世界の香りづくり全般でアジア人として最初だったという意味ではありません。欧米の大手香料会社と国際的な高級ブランドを中心とする分野で、その存在が注目されてきたという位置づけです。

ドンの仕事を理解するうえで大切なのは、その肩書だけではないでしょう。移住を経験し、異なる文化の中で暮らしながら、祖父の薬草や祖母の塩の記憶を、世界各地で使われる香水へつないできたことです。

ちなみに…

エル・ベトナムのインタビューには、ドンのユーモアが見えるやり取りもあります。最も力のある女性は誰かと聞かれ、政治やビジネスの人物を挙げた後、自分にとっては家にいる妻だと答えました。

キャリアの節目については、約10年ごとに新しい周期が訪れ、その機会を受け入れてきたという趣旨の言葉も紹介されています。故郷を離れた少年が、アメリカ、フランス、ドイツで学び、また新しい職場へ進む。その歩みを、ドン自身は今も旅として捉えているようです。

調香作品

代表作を年代順に掲載します。「—」は参照資料で他の調香師の記載がない作品です。

年 ブランド 作品名 共同調香師
2000 アニマル(Animale) シャルール ダニマル(Chaleur d’Animale) —
2000 アニマル シャルール ダニマル プール オム(Chaleur d’Animale pour Homme) ミシェル・グージュ(Michel Gouges)
2000 ペリー エリス(Perry Ellis) ポートフォリオ メン(Portfolio Men) —
2001 マーク・ジェイコブス マーク ジェイコブス ウーマン(Marc Jacobs Woman) スティーブ・デメルカード
2001 ペリー エリス ポートフォリオ エリート メン(Portfolio Elite Men) —
2001 ダナ(Dana) ヘヴン セント(Heaven Sent、再解釈版) —
2004 エリザベス アーデン プロヴォカティブ ウーマン(Provocative Woman) ジャン=マルク・シャイラン(Jean-Marc Chaillan)
2004 エス・テー・デュポン(S.T. Dupont) ロー プール ファム(L’Eau pour Femme) ソフィー・ラベ(Sophie Labbé)
2005 カルバン クライン ユーフォリア カルロス・ベナイム、ドミニク・ロピオン
2005 リズ クレイボーン(Liz Claiborne) カーヴ ソウル(Curve Soul) ジャン=マルク・シャイラン
2005 マイケル コース(Michael Kors) アイランド(Island) カルロス・ベナイム
2006 カルバン クライン ユーフォリア メン カルロス・ベナイム、ジャン=マルク・シャイラン
2006 カルバン クライン ユーフォリア ブロッサム カルロス・ベナイム
2006 エリザベス アーデン プロヴォカティブ インタールード(Provocative Interlude) カルロス・ベナイム
2006 ダニエル・スティール(Danielle Steel) ダニエル(Danielle) —
2007 カルバン クライン シーケー イン トゥ ユー フォー ハー(CK IN2U for Her) カルロス・ベナイム、ジャン=マルク・シャイラン、ブルーノ・ジョヴァノヴィック(Bruno Jovanovic)
2007 マライア・キャリー エム(M) カルロス・ベナイム
2007 ブリトニー・スピアーズ ビリーヴ(Believe) —
2008 マイケル コース アイランド バミューダ(Island Bermuda) ジャン=マルク・シャイラン
2008 ヴェラ ウォン(Vera Wang) ブーケ(Bouquet) —
2008 エマニュエル ウンガロ(Emanuel Ungaro) ユー バイ ウンガロ フォー ハー(U by Ungaro for Her) ジャン=マルク・シャイラン
2008 ショーン ジョン(Sean John) アイ アム キング(I Am King) ジャン=マルク・シャイラン、カルロス・ベナイム、ローラン・ル・ゲルネック(Laurent Le Guernec)
2009 エスカーダ(Escada) デザイア ミー(Desire Me) —
2010 ジョルジオ アルマーニ アクア ディ ジョイア アン・フリッポ、ドミニク・ロピオン
2011 ビヨンセ パルス(Pulse) ブルーノ・ジョヴァノヴィック
2011 キース・アーバン(Keith Urban) フェニックス(Phoenix) —
2012 イヴ・サンローラン マニフェスト アン・フリッポ
2012 テイラー・スウィフト(Taylor Swift) ワンダーストラック エンチャンテッド(Wonderstruck Enchanted) ジャン=マルク・シャイラン
2013 イヴ・サンローラン マニフェスト レリクシール アン・フリッポ
2014 ビヨンセ ライズ(Rise) —
2014 イッセイ ミヤケ(Issey Miyake) ニュイ ドゥ イッセイ(Nuit d’Issey) ドミニク・ロピオン
2015 パコ ラバンヌ オリンピア アン・フリッポ、ドミニク・ロピオン
2015 イヴ・サンローラン マニフェスト ル パルファム アン・フリッポ
2016 パコ ラバンヌ オリンピア アクア/オリンピア インテンス アン・フリッポ、ドミニク・ロピオン
2017 ペンハリガン(Penhaligon’s) ザ リマーカブル サクセス オブ ミスター ハロッド(The Remarkable Success of Mr. Harrod) —
2018 プロエンザ スクーラー(Proenza Schouler) アリゾナ(Arizona) カルロス・ベナイム
2019 アザロ(Azzaro) ウォンテッド ガール(Wanted Girl) ファニー・バル(Fanny Bal)、ジャン=クリストフ・エロー(Jean-Christophe Hérault)、ドミニク・ロピオン
2019 パコ ラバンヌ オリンピア レジェンド —
2019 イッセイ ミヤケ ニュイ ドゥ イッセイ パルス オブ ザ ナイト(Nuit d’Issey Pulse of the Night) —
2019 ナチュラ(Natura) エッセンシャル シュプレーム(Essencial Supreme) —
2021 パコ ラバンヌ ファントム アン・フリッポ、ドミニク・ロピオン、ジュリエット・カラグーゾグロウ
2024 ラバンヌ ミリオン ゴールド フォー ハー アリエノール・マスネ、ナタリー・ベナロー、スージー・ル・エレー
2025 ラバンヌ ミリオン ゴールド フォー ハー パルファム(Million Gold for Her Parfum) アリエノール・マスネ、ナタリー・ベナロー、スージー・ル・エレー

参考文献