ポール・ヴァシェール(Paul Vacher)──精密な処方に、夢を忍ばせる

ポール・ヴァシェールのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル

「香水は、しばしば考えられているような、単なる贅沢品ではありません。香水は、人々の暮らしに入り込み、言葉では言い表せない喜びをもたらす、目に見えない存在なのです。」

ポール・ヴァシェール、1964年『ジュール・ド・フランス』誌の談話より

1902年2月19日生まれ、1975年11月12日没。

ランヴァン(Lanvin)のアルページュ(Arpège)、クリスチャン・ディオール(Christian Dior)のミス・ディオール(Miss Dior)、そして自ら率いたル・ガリオン(Le Galion)のソルティレージュ(Sortilège)。ポール・ヴァシェールの名前は知らなくても、その仕事にはどこかで触れているかもしれません。

化学技師として出発したヴァシェールは、香水を精密に組み上げながら、その先にある感情を見つめた人でした。細かな配合量を守る職人と、海辺の記憶を小瓶に閉じ込めようとする夢想家。その二つの顔が、彼の作品には同居しています。

調香史

化学学校でつながった、ランヴァンとの縁

本名はポール・ジョゼフ・ウジェーヌ・ヴァシェール(Paul Joseph Eugène Vacher)。パリ6区のリュクサンブール通りに生まれました。父アンリ・ヴァシェール(Henri Vacher)は司法清算人、母はアンナ・マルトー(Anna Marteau)。香水を家業とする家庭ではありませんでした。

3歳で母を亡くしたのち、ジャージー島のボン・スクール校(Collège du Bon-Secours)、ヴェルサイユのリセ・サント・ジュヌヴィエーヴ(Lycée Sainte-Geneviève)で学びます。理系のバカロレアを取得し、1921年にはミュルーズ高等化学校(École supérieure de chimie de Mulhouse)へ進学しました。

そこで出会った同窓生が、イヴ・ランヴァン(Yves Lanvin)です。彼を通じて、その叔母である服飾デザイナー、ジャンヌ・ランヴァン(Jeanne Lanvin)と知り合います。化学を学ぶ教室で生まれた縁が、やがてオートクチュールの世界へつながっていくことになります。

1925年に化学技師の資格を得ると、マルセル・ゲラン(Marcel Guerlain)のもとで香水の仕事を始めました。このマルセルは、著名なゲラン家とは別系統の人物とされています。その後ランヴァンへ移り、1927年には技術監督と調香師を兼ねる立場に就きました。

既存の香りを見直し、アルページュへ

ヴァシェールが加わったころ、ランヴァンにはすでにいくつかの香水がありました。ところが彼は、その大半に満足していなかったようです。香水専門誌オパルファン(Auparfum)が紹介した回想では、既存の作品について、こう厳しく述べています。

「これらの調合はまったく平凡で、売れていませんでした。」

ポール・ヴァシェール、ランヴァンの初期作品についての回想

例外として米国で売れていたマイ・シン(My Sin)についても、持続性や安定性を課題に挙げています。先行作品をただ引き継ぐのではなく、技術の面から見直そうとした姿勢がうかがえる言葉です。

そして1927年、調香師アンドレ・フレイス(André Fraysse)とともにアルページュを完成させます。ジャンヌが、音楽家である娘マリー=ブランシュ・ド・ポリニャック(Marie-Blanche de Polignac)の30歳の誕生日に贈った香水です。

名前は、音楽のアルペジオに由来します。試作品を嗅いだマリー=ブランシュが、音を順番に重ねるアルペジオのようだと感じた、という逸話が伝わっています。さまざまな花が一つの香りへ溶け合う構成を、音楽の言葉で捉えたのでしょう。

アルデハイドが花束に明るい輪郭を与え、その下でローズ、ジャスミン、イランイランなどが重なります。黒い瓶に描かれた母娘の金色の図像は、ポール・イリブ(Paul Iribe)のデザイン。香りと容器の両方に、母から娘へという贈り物の物語が刻まれました。

ランヴァンでは、ルメール(Rumeur)、スキャンダル(Scandal)、オー・ド・ランヴァン(Eau de Lanvin)などにも携わります。しかし1935年、香水売上の会計をめぐる争いが訴訟へ発展。オパルファンの評伝によると、勝訴したヴァシェールは会社を離れ、自分のメゾンを持つ道を選びました。

ル・ガリオンを、自分の創作の場所に

1935年、ヴァシェールはミュラ公(Prince Murat)からル・ガリオンを買い取ります。1930年に設立されたこの香水メゾンの名は、大型帆船のガレオン船に由来します。大海原へ出ていく船を思わせる名前は、独立した調香師の出発にもよく似合います。

翌1936年に発表したソルティレージュは、たちまちブランドの代表作になりました。アルデハイドと豊かなフローラルを組み合わせ、官能的な余韻へつなぐ香水です。メゾンは80を超えるエッセンスを用いた作品として紹介しています。

その後も、1937年のブーラスク(Bourrasque)、イリス(Iris)、チュベルーズ(Tubéreuse)、ジャスミン(Jasmin)、ガルデニア(Gardénia)、1938年のブリュム(Brumes)と、異なる表情の香りを送り出しました。とりわけ花の名を冠した作品には、一つの花をじっくり観察し、香水として組み立て直す仕事が見えてきます。

1939年にはアンヌ=マリー・ロジュロン(Anne-Marie Rogeron)と結婚。第二次世界大戦では軍の衛生部隊に動員されます。戦時下にも、香りについて考え続けていたことは、1943年のインタビューから伝わってきます。

海そのものではなく、海辺で過ごした時間を

1943年1月の『パルフュムリー(Parfumerie)』誌で、記者ミシェル・アルボー(Michel Arbaud)はヴァシェールを訪ねました。この談話は、香水保存機関オスモテーク(Osmothèque)の協力で、後年ボワ・ド・ジャスマン(Bois de Jasmin)に英訳が掲載されています。

そこでヴァシェールが構想していたのは、アンブラン(Embruns)、つまり波しぶきを題材にした香水でした。

「私はかなり長いあいだ、海の匂いがする香りを探し求めてきました。まず名前から考えたのです。『アンブラン』、そして一つのアイデア。海の息吹と、太陽に温められた砂浜の息吹が混じり合う、海岸の素晴らしい香りです。……女性が海そのものの匂いをさせてはいけません。海辺の穏やかな時間を、幸せな休暇の思い出を呼び起こさなければならないのです。」

ポール・ヴァシェール、『パルフュムリー』誌、1943年

海藻やコンブを蒸留し、ヨードを思わせながら刺激的すぎない素材を探す。オレガノや、エニシダ、ハリエニシダ、ニセアカシアなどの花の要素も検討する。彼の話は、景色の描写から、実験室での具体的な試行へと行き来します。

ただ海に似ているだけでは、香水としては足りない。着けた人に、海辺で過ごす幸福を思い出してもらいたい。その区別を、ヴァシェールははっきり意識していました。

同じ談話では、もう一つの構想、ランデヴー(Rendez-vous)についても明かしています。

「ウッディな香りです。ローズウッド、マカッサル、黒檀、チャンパカ。シダーも少し入るかもしれません。もちろん、ベチバーとサンダルウッドも。」

ポール・ヴァシェール、構想中のランデヴーについて、1943年

こちらは海辺とは異なり、木の質感を重ねて官能性を探るものです。すでに発売された傑作だけでなく、構想中の香りについて語る言葉からも、調香師の思考を知ることができます。

ミス・ディオールと、ニュールックの時代

戦後、ヴァシェールはクリスチャン・ディオールの最初の香水に携わります。依頼の中心にいたのは、ディオールの友人で事業パートナーでもあったセルジュ・ヘフトラー=ルイシュ(Serge Heftler-Louiche)でした。

1947年2月12日。ディオールがニュールックを発表した日、ミス・ディオールもメゾンの新たな世界を香りで示しました。花束をそのまま瓶に入れたような香水ではなく、緑の鋭さ、花の厚み、苔や革の深さが交錯するシプレです。

調香については、ジャン・カール(Jean Carles)とヴァシェールの共作として広く紹介されてきました。一方、香水史家マイケル・エドワーズ(Michael Edwards)の改訂版『パフューム・レジェンズⅡ(Perfume Legends II)』では、ヴァシェールの単独クレジットが採用されています。現在も資料によって記載が異なりますが、ヴァシェールが創作の中心にいたことは共通しています。

1950年、ル・ガリオンの拠点はヌイイの邸宅へ移りました。ヴァシェールはここに実験室と生産拠点を置き、ル・ガリオンの香水を作るとともに、ディオールへ香料濃縮液を供給します。自分のブランドを率いる仕事と、他のメゾンの世界を香りにする仕事を並行して続けたのです。

一ミリグラムと向き合う職人

風景や記憶を語るヴァシェールの言葉は詩的です。しかし、それを実際の香水にする段階では、きわめて厳格でした。ル・ガリオンは、その仕事観を示す本人の言葉を伝えています。

「音楽家は音符を消せます。作家は文章を消し、画家は失敗した部分を塗り直せます。しかし私たちは、混合物に満足できなければ、修正することができません。最初からやり直さなければならないのです。一つひとつの配合が一ミリグラム多くても少なくても、失敗になります。」

ポール・ヴァシェール、ル・ガリオン公式サイト掲載

これは、香水の試作を一切修正できないという科学的な一般法則ではありません。ひとたび混ぜた素材を、絵の具のように取り除くことはできない。だから配合と再試作を疎かにしないという、彼の職人気質を伝える言葉です。

娘で調香師のドミニク・ド・ウレスティ(Dominique de Urresti)は、父の処方を、独自のベースやスペシャリティがいくつも組み込まれた複雑なものとして振り返っています。処方の中にさらに処方があるような構造です。素材の組み合わせを細部まで作り込み、全体では一つのまとまりに聞こえさせる仕事だったのでしょう。

1950年のラ・ローズ(La Rose)を作る際には、70種ものバラを調べ、最後に自邸の庭で求める一株を見つけたと、ブランドは紹介しています。抽象的な美しさへの関心と、目の前の植物を嗅ぎ分ける観察力は、別々のものではありませんでした。

晩年まで続いた創作

ル・ガリオンでは、スペシャル・フォー・ジェントルメン(Special for Gentlemen、1947年)、フラック(Frac、1949年)、スノッブ(Snob、1952年)、ホイップ(Whip、1953年)なども発表。ファッションデザイナー、ジャン・デセ(Jean Dessès)のためには、スリュイ(Celui de Jean Dessès)やカリスペラ(Kalispera)を手がけました。

1963年には、ディオールからディオーリング(Diorling)が登場します。同年、香水産業への貢献に対してレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ(Chevalier de la Légion d’honneur)を受章。ル・ガリオンの公式史によれば、ソルティレージュはこのころ97カ国で販売されていました。

1968年のヴェティヴェール(Vétyver)では、乾いた木質感を持つベチバーを中心に、男性向けの香りを追究します。そして1972年、最後の作品とされるオー・ノーブル(Eau Noble)を発表しました。

1975年に引退し、ル・ガリオンを娘ドミニクへ引き継ぎます。同年11月12日、パリの自宅で死去。73歳でした。

代表作とその背景

アルページュ──花々が一つの旋律になる

1927年のアルページュは、アンドレ・フレイスとの共作です。さまざまな花の印象をアルデハイドで結び、ウッディで柔らかな余韻へつなぐ構成は、フローラル・アルデハイドを代表するものになりました。

しばしば「千の花の香り」と形容されますが、これは花の数を数えた表現ではありません。一輪ずつの花が、香水の中でより大きな花束へ変わる印象を伝えるものです。スズランやライラックのように、通常の抽出では精油を得にくい花の表現にも、調香技術の役割がありました。

1993年には、アンドレの弟ユベール・フレイス(Hubert Fraysse)が処方を再構成しています。現在の製品と1927年の香水には違いがありますが、母娘を描いた瓶と音楽に由来する名前は、作品の記憶を伝え続けています。

ソルティレージュ──パリからニューヨークの夜へ

ソルティレージュは「魔法」や「まじない」を意味する名前です。イランイラン、ジャスミン、ローズ、アイリスなどの花々に、木やムスクの温かみを重ねた、厚みのあるアルデハイド・フローラルでした。

パリで成功した香りは、大西洋を渡ります。ニューヨークのナイトクラブ、ストーク・クラブ(Stork Club)との結びつきは、その国際的な広がりを象徴するものです。メゾンの歴史には、マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)やアヴァ・ガードナー(Ava Gardner)といった映画スターも登場します。

ただ華やかな顧客を持ったというだけではありません。自分のメゾンで作った香水が、別の都市の夜や、そこで生きる人たちの記憶に入り込んでいく。冒頭の「目に見えない存在」という香水観を、具体的な形で示した作品でもあります。

ミス・ディオール──花、緑、革を組み合わせた肖像

オリジナルのミス・ディオールは、グリーンな立ち上がりと濃密な花、苔、パチュリ、革を思わせる余韻が結びついた香水です。フランソワ・コティ(François Coty)のシプレ(Chypre)が広めた構造を、戦後のメゾンにふさわしい形へ展開しました。

名前だけを見れば若々しく軽やかな香りを想像するかもしれません。しかし1947年の作品は、優雅さの内側に緑や革の厳しさを持っています。花の美しさを、甘さだけで終わらせないところに魅力があります。

今日のミス・ディオールという名前の製品群には、多くの再解釈があります。ヴァシェールの仕事として語る際には、まず1947年のオリジナルを指していることを区別しておきたいところです。

ディオーリング──革の輪郭に宿る洗練

1963年のディオーリングは、ヴァシェールがディオールに残したレザー・シプレです。柑橘の明るさから、ヒヤシンスやジャスミンなどの花へ。そこへ革、苔、パチュリ、ベチバーの暗さが重なっていきます。

ミス・ディオールと同じくシプレの系統にありながら、革のなめらかな質感がより前に出ています。強い輪郭を持ちながら、着ける人の動きに馴染む。ヴァシェールの緻密な構成力を知るための、もう一つの重要作です。

2012年には再発売版も登場しました。往年の作品を読むときは、ヴィンテージと後年の版を分けることで、評価の違いも理解しやすくなります。

ちなみに…

娘たちが覚えていた父

香水文化を支援するペル・フムム(Per Fumum)が2022年に行ったインタビューでは、ドミニクと写真家のベネディクト・トゥルジュマン(Bénédicte Tourdjman)が父の思い出を語っています。そこに現れるのは、教養があり、繊細で内向的で、音楽を愛し、仕事に情熱を注いだ人の姿です。

アルページュという音楽に由来する香水名だけでなく、本人も音楽に親しんでいました。海辺の香りを言葉で組み立てる談話にも、素材を一つずつ並べながら全体の響きを探るようなところがあります。

アヴァ・ガードナーのための香りと、メゾンの再出発

1950年代末には、アヴァ・ガードナーの私的な使用のためにラストル(L’Astre)を作ったと伝えられています。長く一般販売されなかったこの香りは、2023年、ロドリゴ・フローレス=ルー(Rodrigo Flores-Roux)による新たな解釈で発売されました。ヴァシェールの当時の処方そのものを、単純に再販したものではありません。

ル・ガリオンはヴァシェールの死後、ドミニクに継承され、1978年には父へのオマージュ、メガラ(Mégara)が発表されます。その後、売却と長い休止期を経て、2014年にニコラ・シャボ(Nicolas Chabot)のもとで再始動しました。トマ・フォンテーヌ(Thomas Fontaine)らが往年の作品を再構成し、新しい創作も加えています。

かつての調香師が作った香水は、時代とともに姿を変えます。それでも、本人が残した言葉を読み、当時の作品と新しい解釈を照らし合わせることで、何を香水に求めていたのかを辿ることができます。

調香作品

原作と後年の再調香版を区別した主要作品です。年代と共同調香の記載には資料差があります。

年 ブランド 作品名 共同調香師・備考
1927 ランヴァン アルページュ アンドレ・フレイス
1932〜1934頃 ランヴァン ルメール アンドレ・フレイス。1934年表記もあります
1932〜1933頃 ランヴァン スキャンダル アンドレ・フレイス。1933年表記もあります
1933頃 ランヴァン オー・ド・ランヴァン —
1936 ル・ガリオン ソルティレージュ —
1937 ル・ガリオン ブーラスク —
1937 ル・ガリオン イリス —
1937 ル・ガリオン チュベルーズ —
1937 ル・ガリオン ジャスミン —
1937 ル・ガリオン ガルデニア —
1938 ル・ガリオン ブリュム —
1947 ル・ガリオン スペシャル・フォー・ジェントルメン —
1947 クリスチャン・ディオール ミス・ディオール ジャン・カールとの共作表記と、ヴァシェール単独表記があります
1949 ル・ガリオン フラック —
1950 ル・ガリオン ミュゲ(Lily of the Valley) —
1950 ル・ガリオン ラ・ローズ —
1950 ル・ガリオン ヴィオレット(Violette) —
1952 ル・ガリオン スノッブ —
1953 ル・ガリオン ホイップ —
1950年代末 ル・ガリオン ラストル アヴァ・ガードナーの私的な香水。2023年版は別の再解釈
1959 ジャン・デセ スリュイ —
1962〜1965頃 ジャン・デセ カリスペラ 年代に資料差があります
1963 クリスチャン・ディオール ディオーリング —
1967 ル・ガリオン ノエル67(Noël 67)/コロン・エクストラ・ヴィエイユ(Cologne Extra-Vieille) —
1968 ル・ガリオン ガリオン・ドール(Galion d’Or) —
1968 ル・ガリオン ヴェティヴェール —
1972 ル・ガリオン オー・ノーブル —

参考文献