Dr. Vranjes Firenze(ドットール・ヴラニエス フィレンツェ)――記憶を「空間の香り」に翻訳した、フィレンツェの香りの家

Dr. Vranjes Firenzeのリードディフューザーを、フィレンツェの街並みを望む明るい室内に置いたブランドイメージ ブランド創業者

「良い香水は、人生で捉えた匂いから生まれる。それはいつも、記憶や旅、人々と結びついている」

— 創設者 パオロ・ヴラニエス(英語インタビューより訳)

香水は肌にまとうもの――その常識から少し離れ、家そのものを香りで装う文化を育ててきたのが、Dr. Vranjes Firenze〈ドットール・ヴラニエス フィレンツェ〉である。1983年、薬剤師・化学者・コスメトロジストであるパオロ・ヴラニエスと妻アンナ・マリアがフィレンツェに開いた小さな工房は、やがて赤ワインを香りで描くROSSO NOBILE〈ロッソ ノービレ〉を生み、世界的なホームフレグランスメゾンへ成長した。

このブランドを理解する鍵は、「香り」だけではない。科学と記憶、フィレンツェの建築、ガラスや紙を扱う職人技、そして暮らす空間を美しく整えるイタリア的な感覚。そのすべてが、ひとつのボトルの中で結びついている。

基本情報

ブランド名:Dr. Vranjes Firenze〈ドットール・ヴラニエス フィレンツェ〉/現在のグローバル表記はVranjes Firenze〈ヴラニエス フィレンツェ〉
設立:1983年、イタリア・フィレンツェ
創設者:Dr. Paolo Vranjes〈パオロ・ヴラニエス〉、Anna Maria Vranjes〈アンナ・マリア・ヴラニエス〉
前身:L’Antica Officina del Farmacista〈ランティカ・オッフィチーナ・デル・ファルマチスタ〉
主な製品:ルームディフューザー、キャンドル、ランパルファム、カーパルファム、オードパルファム、ハンドケア
所属:2024年からL’OCCITANE Group〈ロクシタン・グループ〉
公式サイト:日本公式サイト / グローバル公式サイト

「Dr.」は創業者が化学・薬学・コスメトロジーを修めた人物であることに由来し、日本では「ドットール・ヴラニエス」の名で長く親しまれてきた。2024年以降、グローバルでは創業家の名と都市名を前面に出した「ヴラニエス フィレンツェ」へブランド表記を移行している。

創設者とブランドの成り立ち

祖父の部屋で始まった香りの記憶

パオロ・ヴラニエスはボローニャで生まれ育った。幼い頃から香りへの感受性が強く、香料の入った瓶に未知の世界を感じていたという。香りが場所や感情を呼び戻し、見知らぬ土地の風景まで想像させる――のちの創作哲学につながる好奇心は、この頃から育っていた。

その中心にいたのが祖父であった。祖父は絹をはじめとする高級織物の貿易商で、東方への旅からクリスタル瓶に入った香料や芳香油を持ち帰っていた。6歳のパオロは、それらが収められた部屋をのぞき込み、やがて祖父の傍らで一本ずつ香りを知るようになる。

「私のルーツは、シルク商人として世界中を巡っていた祖父のコレクションだった香水の瓶です」

— パオロ・ヴラニエス

この体験は、単なる「香水好き」の原点ではない。見知らぬ土地から来た液体を嗅ぎ、産地や素材を想像し、異なる香りを混ぜると別の情景が現れる。その好奇心が、後年のパオロにとって創作のエンジンになった。本人は、現在も2,200種を超えるエッセンスの前に立つ自分を、祖父のコレクションに向き合った少年時代と重ねている。

科学を学び、フィレンツェへ

パオロは化学・薬学・コスメトロジーを学び、イタリアの著名な美容研究者たちとともに、高級ウェルネス施設向けの美容処方を手掛けた。感覚だけに頼るのではなく、原料の性質、配合の安定性、肌や空間での振る舞いを理解する科学的な基礎は、この時代に培われた。

やがて彼はフィレンツェへ移る。ルネサンス以来、香料の蒸留や薬局文化、工芸技術が交差してきたこの街は、香りを仕事にするうえで特別な場所だった。同時に、フィレンツェ出身で美的感覚に優れたアンナ・マリアとの出会いが、私的な趣味だった調香を職業へ変える転機となった。パオロ自身、マスター・パフューマーとして歩み始められたのは「妻アンナ・マリアの直感のおかげ」と語っている。

1983年、小さな薬剤師工房から

1983年、夫妻はフィレンツェのヴィア・サン・ガッロにランティカ・オッフィチーナ・デル・ファルマチスタを設立した。名称は「古い薬剤師の工房」を意味する。出発点は香水専門店というより、パーソナルケアと温泉療法的なトリートメントを、科学研究とトスカーナの職人技で結ぶ研究工房であった。

翌1984年にはラグジュアリーなウェルネス施設向けの美容トリートメントを展開。1988年には、水と空気のイメージを重ねた最初期のルームフレグランスACQUA〈アクア〉を生み、1993年には10周年を記念するAMBRA〈アンブラ〉を発表した。1996年にはフィレンツェ中心部、ドゥオモにも近いヴィア・サン・ガッロに、製造ラボを来店者から見える形にした店舗を開いている。

ホームフレグランスへ向かった背景には、パオロの記憶観がある。家や家族を思い出させる匂い、幸せな場面へ連れ戻してくれる匂い。そうした香りと記憶の結びつきを、暮らす部屋のためのフレグランスへ展開していった。

最初に香らせたのは、自分たちの家だった。空間に感覚的な奥行きを加え、香りながら同時に部屋を飾る「物」をつくる。この発想は、ブランドが後に掲げる“arredo olfattivo”、すなわち「香りによるインテリア」へ発展していく。

赤ワインを再現する、三年間の挑戦

ブランドを世界に知らせたロッソ ノービレは、1990年代末、映画制作者でワイン愛好家の友人フランシスとの会話から始まった。フランシスは、キャンティやモンテプルチアーノの土地に満ちる赤ワインの香りを、フレグランスで再現することはできないと考えていた。挑戦を好むパオロは、その言葉を受けて調香に取りかかる。

完成までには3年を要した。満足できる処方に到達すると、パオロはワイン用デキャンタに香料を入れ、通常のリードではなく本物の葡萄の枝を添えて友人へ送った。ベリーの果実味、花のニュアンス、木樽を思わせるウッドが重なり、単純な「ワインの匂い」ではなく、グラスを囲む時間やトスカーナの風景まで含む香りとなった。公式年表では1999年の作品とされ、その成功はブランドを国外へ押し出す転機になった。

ロッソ ノービレのオードパルファムでは、カシスやストロベリー、ワイルドベリー、スミレ、オレンジブロッサム、バーチ、オークなどの香りが紹介されている。果実の甘酸っぱさ、ワインを思わせる芳醇さ、樽の乾いた木質感を段階的に描く構造であり、今日ではディフューザーだけでなく、キャンドルやオードパルファム、ハンドケアへも世界観が広げられている。

「香る道具」から、暮らしのデザインへ

2000年代に入ると、ブランドはディフューザーだけでなく、キャンドル、触媒式ランプのLAMPARFUM〈ランパルファム〉、車内用のCARPARFUM〈カーパルファム〉へ領域を広げた。香液そのものを売るのではなく、火、ガラス、スティック、器具を含む空間演出として香りを設計する姿勢が鮮明になった。

2008年、ブランドはドットール・ヴラニエス フィレンツェとして新たな段階に入り、八角形のボトルをアイコンに据える。その輪郭は、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、通称ドゥオモのブルネレスキ設計によるクーポラを映したものである。

このデザインにもアンナ・マリアの役割がある。彼女はガラス職人が制作していたランプの台座と思われる形に、ドゥオモの八角形の胴部を重ねたという。つまりボトルは、フィレンツェ建築の単純な縮小模型ではない。ガラス工房で見いだした造形を、都市の象徴へ読み替えたデザインなのである。

成長しても、創作の中心は記憶

2017年、欧州の投資会社ブルージェムが経営に参画した。ブランドは海外市場、直営店、デジタル販売を拡大し、2023年には売上高が4,200万ユーロを超えた。2024年1月の買収発表時点では、75か国以上に展開し、28の単独店と650の販売拠点を持つ規模に育っていた。

2022年には、空間のために磨いてきた代表作を肌の上で再解釈するオードパルファムへ本格的に進出する。2024年にはロクシタン・グループが事業を取得し、ホームフレグランスを核としながら、パーソナルフレグランスとウェルビーイング領域を伸ばす新章が始まった。

それでも、パオロの創作法は大きく変わっていない。人、旅、食事、風景から一枚の像をつかみ、その像が呼び起こす感情を香料へ置き換える。たとえばOUD NOBILE〈ウード ノービレ〉は、中東で客を迎えるために沈香を焚く文化への感銘から生まれ、ウードの暗い厚みへベルガモットの地中海的な光を差し込ませた作品である。

「新しい香りを作るときはいつも、すべての感情を注ぎ込みます」

— パオロ・ヴラニエス

ブランドのこだわり

科学と感情の両立

ドットール・ヴラニエスの香りは、思い出を物語として語る一方、蒸散の持続性や素材同士の安定性を科学的に設計している。ホームフレグランスでは空間へ長く均一に広がる組成が、オードパルファムでは肌の上で心地よく推移する配合が必要になる。使う場所は異なっても、香りを個人的な記憶と結びつける発想は共通している。

パオロは、2,200種を超えるエッセンスから香りを組み立てると語っている。ブランドは植物由来のアルコールを使い、天然由来の精油と、フィレンツェのラボで合成によって再現した香りを組み合わせている。天然だけを無条件に優位とせず、表現、安定性、責任ある調達を組み合わせる点には、化学者が築いたブランドらしさが表れている。

フィレンツェを形にする

八角形のボトルとキャンドルのガラスベースは、ドゥオモへのオマージュである。ガラス容器をはじめとする工芸と、香りの研究・製造を地域のものづくりに結びつけ、トスカーナの職人や供給業者との関係を重んじる。視覚、触覚、嗅覚を別々に扱わず、一つの「フィレンツェ製品」にまとめる考え方である。

現在はトスカーナ内の短いサプライチェーンとリフィルの活用を掲げ、2025年8月にはB Corp認証を取得した。B Lab公表の総合B Impact Scoreは91.5で、イタリア国内の生産施設とオフィスでは再生可能エネルギー由来の電力を使用している。

香水ラインナップ

ホームフレグランス

ブランドの核は、30種以上の香りを展開するルームディフューザーである。代表作には、赤ワインを描くロッソ ノービレ、柑橘とスパイスが弾けるGINGER LIME〈ジンジャー・ライム〉、アンバー、パチョリ、サンダルウッドが温かく重なるアンブラ、沈香とベルガモットを対置したウード ノービレ、パチョリやサンダルウッドで都会の躍動感を表すMILANO〈ミラノ〉などがある。

代表的な香りをキャンドル、ランパルファム、カーパルファムなど異なる形式で展開することも特徴である。ディフューザーが時間をかけて空間を染めるのに対し、ランパルファムは触媒燃焼によって短時間で香りを広げ、カーパルファムは車内を小さな生活空間として扱う。製品形式が変わっても、「どこにいても家のように感じられる香り」という考えが通底している。

ヘリテージ・オードパルファム

オードパルファムのヘリテージ・コレクションは、ロッソ ノービレやジンジャー・ライムなど、ホームフレグランスで確立したアイコンを「まとう香り」として再構成したラインである。空間で親しまれた香りを、そのまま肌へ移すのではなく、時間とともに変化するトップ、ミドル、ベースの構造へ翻訳している。

フィレンツェ・イン・トランスレーション

2025年に登場したFirenze in Translation〈フィレンツェ・イン・トランスレーション〉は、英語へ一語で置き換えにくい8つのイタリア語を、8種類のユニセックス香水へ翻訳したコレクションである。朝の儀式を表すMATTUTINO〈マットゥティーノ〉、暑い午後に木陰で休むMERIGGIARE〈メリッジャーレ〉、目が回るほどの感動を表すCAPOGIRO〈カポジーロ〉、花びらに満ちた様子を示すPETALOSO〈ペタローゾ〉、企みと魅力を含むINTRIGO〈イントリーゴ〉、グラスが触れ合う音のTINTINNIO〈ティンティンニーオ〉、光と影のCHIAROSCURO〈キアロスクーロ〉、夜の時間を表すNOTTETEMPO〈ノッテテンポ〉で構成される。

このラインは、香りを都市の名所に直接対応させるのではなく、フィレンツェで過ごす一日の感情や音、光、時間を言葉から香水へ移している。記憶を香りへ翻訳してきたブランドが、今度は「翻訳できない言葉」を香りにする。創業時から続く発想を、現代的なパーソナルフレグランスへ展開したコレクションといえる。

ちなみに…

パオロは日本での取材で、香りに対する日本の人々の繊細さに触れ、フィレンツェと同じように「香りで家を飾る」文化が広がることへの期待を語っている。忙しい日々のなかでも、好きな香りに満たされた家を思い浮かべること。彼にとってホームフレグランスは、暮らしの楽しみをつくる調度品でもある。

また、カクテルを好むパオロは、ヴェネツィアのサン・マルコ広場でベリーニを飲みながらアンナ・マリアに求婚した。その記憶は、桃とプロセッコを題材にしたBELLINI〈ベリーニ〉へ姿を変えた。別の取材では、ヴェネツィアの運河を望むバーのテラスで、夕日を眺めながらベリーニを飲んだ感動も、この香りに込めたと語っている。

少年時代の祖父の部屋、友人とのワイン談義、妻との求婚、旅先で受けたもてなし。ドットール・ヴラニエスの作品には、壮大なコンセプトより先に、きわめて個人的な場面がある。その私的な記憶が、科学と工芸を通って誰かの家へ届き、今度は使い手自身の記憶になる。そこに、このブランドがホームフレグランスから始まった必然がある。

補足

ブランドは2024年のロクシタン・グループ加入後、グローバルでは「Vranjes Firenze」への刷新を進めている。一方、法人名や一部公式サイト、流通上の名称には「Dr. Vranjes Firenze」も残っている。日本では引き続き「ドットール・ヴラニエス」の呼称でも親しまれている。

参考文献
  1. Paolo Vranjes interview(NOSE Paris)
  2. A Unique Story(Vranjes Firenze公式)
  3. 【DR. VRANJES】創設者パオロ・ヴラニエス氏インタビュー(muto)
  4. 氣味與記憶的奇遇 聞香大師Paolo Vranjes親授祕技(本人取材/500輯)
  5. About Us / Story(Vranjes Firenze公式の地域別年表)
  6. Dr. Vranjes: Profumo di Design(Brera Design District)
  7. About Us / Story(日本公式サイト)
  8. ROSSO NOBILE オードパルファム(日本公式サイト)
  9. Selecting a home fragrance is an exercise in self-reflection(The National)
  10. Bluegem agrees sale of Dr Vranjes(Bluegem Capital Partners)
  11. L’OCCITANE Group acquires Dr. Vranjes Firenze(L’OCCITANE Group)
  12. INTERVIEW: DR. PAOLO VRANJES(BARNEYS NEW YORK)
  13. Fragrance Collections(Vranjes Firenze公式)
  14. B Corp(Vranjes Firenze公式)
  15. Dr. Vranjes Firenze S.p.A. B Corp Profile(B Lab)
  16. Heritage Collection – Eau de Parfum(Vranjes Firenze公式)
  17. Firenze in Translation Collection(Vranjes Firenze公式)
  18. AMBRA ディフューザー(日本公式)
  19. GINGER LIME(日本公式)

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