香りを電気信号として読み取る「人工の鼻」。その材料をつくるには、どの分子が匂い成分を捕まえ、捕まえたあとにどんな電気的変化を起こすのかを知る必要があります。相性のよさを、実験する前に計算で絞り込めたら、材料探しは進めやすくなりそうです。
Chenらが2025年に発表したMORE-Qは、そのための量子化学計算のデータセットです。体臭に関わる102種類の分子と、18種類の人工の受容分子を組み合わせ、構造や電子の振る舞いを整理しました。完成したセンサーの性能を競う研究ではなく、センサーを設計し、その仕組みを理解するための基礎資料をつくる研究です。
鼻の受容体そのものを使うわけではない
ここでいう受容分子は、人の鼻の細胞にある嗅覚受容体のタンパク質ではありません。粘液の成分であるムチンに着想を得て、糖を土台にさまざまな化学的な部分を取り付けた、人工の分子です。18は、人の数でも鼻の受容体の種類数でもありません。
糖の周りをどのように飾るかによって、分子の硬さ、水となじみにくい性質、電子の偏りやすさなどを調節できます。研究で扱ったものには、グラフェンの表面に付着しやすくする部分もあります。グラフェンは、炭素原子が薄いシート状に並んだ、電気を通しやすい材料です。
研究者が考えるセンサーでは、受容分子が匂い成分と相互作用し、その変化をグラフェン側の電気的な性質に結びつけます。このため、匂い成分と受容分子の2つだけでなく、それらを支える表面まで含めて調べることが重要になります。
102種類の分子を、18種類の相手と組み合わせる
匂い成分は、新たに人の汗を集めて選んだものではありません。人の体から報告された揮発性物質の資料と、匂いの知覚評価がある既存の資料を照合し、皮膚に関連する102分子を選びました。今回の対象は、炭素、水素、酸素、窒素、硫黄からできた分子です。
102種類と18種類を掛け合わせると、組み合わせは1836通りになります。ただし、同じ2分子でも、近づく向きや付く場所によって、安定さは変わります。研究者は、受容分子に対する匂い分子のさまざまな配置を探索しました。
似すぎた配置を整理すると、2万3838通りの配置が残りました。これは2万種類以上の匂いを調べたという意味ではなく、1836組について、複数の付着のしかたを調べた数です。
データは3段階に分かれています。第一は、個々の匂い分子と受容分子の性質。第二は、両者が組になったときの性質。第三は、それぞれの組からエネルギー的に有利な配置を1つずつ選び、1836組をグラフェン上に置いたときの性質です。分子単独から、装置の材料に近い組み合わせへと進んでいます。
たくさんの配置を調べ、選んだものを詳しく計算する
量子化学計算では、原子核と電子の関係から、分子のエネルギーや電荷の分布などを求めます。ただし、原子数や配置の数が増えるほど、計算には時間がかかります。
そこで研究者は、まず比較的計算量の少ない方法で構造を整え、多数の配置を探索しました。2万3838配置の性質も、この軽量な方法で求めています。そのうえで、選んだ1836組などには、密度汎関数理論という、より詳しい電子の計算を使いました。全配置を同じ精度の方法で計算したわけではありません。
記録したのは、分子の形、エネルギー、原子ごとの電荷、電子の偏りやすさなど、段階によって最大39種類の性質です。グラフェン上では、匂い分子が付く前後の変化も計算しました。データは公開され、ほかの研究者が取り出して解析できるようになっています。
選び抜いた1836配置が、元の多数の配置の性質を大きく取りこぼしていないかも調べました。複数の性質を2つの軸にまとめて比べると、選んだ配置は、元のデータが占める領域に広く分布していました。著者らは、縮小した組が元の多様さをある程度代表すると考えています。すべての可能な配置を網羅したという保証ではありません。
強く付けば、電気信号も大きい?
この研究で注目した性質の一つが「仕事関数」です。簡単にいうと、材料から電子を外へ取り出すのに必要なエネルギーの目安です。匂い分子が付くとこれが変わるため、センサーの電気的な応答を考える手がかりになります。
計算では、匂い分子の付着によって、仕事関数が大きくなる組も、小さくなる組もありました。受容分子の中の原子の電荷分布も変わり、匂い分子との相互作用が、局所的な電子の状態を変える様子が示されました。
ところが、分子がどれだけ強く付くかを表す吸着エネルギーと、仕事関数の変化の大きさには、単純な相関が見られませんでした。グラフェン全体の電荷の変化と、仕事関数の変化にも、単純な対応はありませんでした。
つまり、今回の計算の範囲では、「強く結びつく組を選べば、電気的な変化も大きい」とは言えません。著者らは、こうした性質が一つの関係に縛られないことを、複数の性質を狙って調節する設計の自由度につながると捉えています。結合の強さだけを見て材料を順位づけするより、多方面から候補を探す価値があります。
材料探しと、人が感じる香りをつなぐために
ただし、仕事関数の計算値は、実際のセンサーがどの濃度まで検出できるかや、混ざった匂いをどれだけ正しく識別できるかを、そのまま示すものではありません。この論文では、新しい装置を使った人の体臭の診断精度を検証したわけでもありません。
扱う元素と受容分子の種類には限りがあり、グラフェン上の詳細計算は、各組で選んだ一つの配置が中心です。著者ら自身、受容分子の向きや形をさらに広く探すと、結果が変わり得ると記しています。もっと精密な計算法や多数の配置を使う改善は可能ですが、必要な計算量も増えます。
今後の用途としては、公開データを機械学習に使い、まだ詳しく計算していない組の性質を素早く予測することが挙げられます。生成モデルと組み合わせ、新しい受容分子の構造を提案することも、著者らの構想に含まれています。
さらに、分子の結合や電子の変化に関するデータと、人が匂いをどう評定するかというデータを結びつける研究も提案しています。人工材料で起きる変化から人の感じ方を直接読み取れるという結論ではなく、異なる種類の情報をつなぐことで、嗅覚の理解を進める将来の方向です。
まとめ
MORE-Qは、匂い分子と人工の受容分子、さらに電気を通すグラフェンを一緒に扱い、分子が付いたときの構造と電子の変化を比較できるようにしたデータセットです。
大切なのは、よく結びつくことと、電気的な変化が大きいことを、別々に調べられるようにした点です。著者らは、この基礎データが、作用の仕組みを理解しながら材料を選び、新しい人工の鼻を設計する足場になると期待しています。
参考文献
Chen, L., Medrano Sandonas, L., Traber, P., Dianat, A., Tverdokhleb, N., Hurevich, M., Yitzchaik, S., Gutierrez, R., Croy, A., & Cuniberti, G. (2025). MORE-Q, a dataset for molecular olfactorial receptor engineering by quantum mechanics. Scientific Data, 12, 324. DOI: 10.1038/s41597-025-04616-6 / 原著全文 / 論文で紹介されたデータ。原著:© The Author(s) 2025, CC BY 4.0。


