歯科医院の待合室で、オレンジや森林を思わせる香りがしていたら、治療前の不安は少し和らぐのでしょうか。2024年に公表されたAROMA_dent研究は、ベルリンの4つの歯科医院で精油を室内に拡散し、患者の不安や痛みを調べました。
参加したのは515人で、主要な評価に回答した486人を解析しました。全体では、香りを使った条件のほうが平均の不安は低かったものの、統計的に明確な差はありませんでした。著者らは一部の患者群や医院の雰囲気への可能性に注目しています。その期待がどの結果に基づくのか、順に見ていきます。
一種類の精油とブレンドで違いはあるのか
研究の目的は、歯科診療の場で精油を拡散することが、そのときの不安や治療中の痛みに影響するかを調べることでした。さらに、一種類の精油より複数を混ぜたものがよいのか、森林を思わせる香りと柑橘系の香りでは違うのかも確かめようとしました。
用意されたのは、オレンジ、スイスパイン、柑橘を中心としたブレンド「Good Mood」、森林をイメージしたブレンド「Forest Walk」の四つです。これらを、香りを拡散しない対照条件と比べました。森林の香りなら落ち着くはずだという考えも、この研究では確かめるべき仮説として扱われています。
患者ごとではなく医院の週ごとに条件を変えた
各医院では、香りの条件を1週間単位で切り替え、その順序を無作為に決めました。患者が経験する条件は、受診した週によって決まります。同じ医院・同じ週に来た人が同じ香りを経験するため、患者一人ひとりを別々の条件に無作為に割り付けた試験とは異なります。このようなまとまりを単位とする方法を、クラスター無作為化試験と呼びます。
香りは待合室と治療室の両方で拡散されました。要旨などには対照が「水」と記載されていますが、具体的な実施方法では、対照の週はすべての装置を停止したと説明されています。本記事では、この方法の記載に沿って香りを拡散しない条件と表しています。
解析人数は、対照95人、オレンジ72人、Good Mood 110人、スイスパイン100人、Forest Walk 109人でした。研究では患者に香りの介入が主目的であることを知らせない工夫をしましたが、香りがするかどうか自体を完全に隠せるわけではありません。
主に測ったのは、治療前の「今この場でどのくらい不安か」という状態不安です。STAI-Sという質問票を用い、来院後、香りに接してから回答してもらいました。回答までの香りへの接触時間は10〜20分程度と想定されています。同じ患者について香りを嗅ぐ前後の変化を測ったのではなく、異なる条件で来院した患者の点数を比べたものです。
486人全体では明確な不安軽減を確認できなかった
状態不安の平均点は、対照条件で40.7点、四つの香りをまとめた条件で38.4点でした。香りを使った条件のほうが2.3点低かったものの、p値は0.080で、統計的に有意な差には達しませんでした。差の大きさを標準化した効果量はd=0.21でした。
この結果からいえるのは、今回の方法と参加者では、全体として明確な不安軽減を確認できなかったということです。平均値が低いだけで効果が証明されたとはいえず、逆に、差を確認できなかっただけで、あらゆる香りがどのような状況でも無効だと決まるわけでもありません。
混合した精油が一種類の精油を上回るという仮説も、森林系が柑橘系を上回るという仮説も、統計的には支持されませんでした。治療中の痛みについても明確な差はありませんでした。「ブレンドだから強く効く」「森林系だから歯科の不安に向いている」と選び分ける根拠は、この試験からは得られていません。
女性で見られた差をどう読むか
研究者は追加で、性別や普段からの不安の強さなどによる違いを調べました。女性296人に限った事後分析では、香りを使った条件の状態不安が低く、p値は0.044でした。著者らは、この結果や普段から不安の強い人の結果を、今後の研究につながる可能性として重視しています。
ただし、女性の結果は、全体の結果を見たうえで行った探索的な分析です。いくつもの分け方で調べると、偶然に差が見つかる機会も増えます。また、女性で差があり、男性で差がなかったことだけでは、性別によって効果が異なると確定したことにもなりません。女性なら確実に効くと説明したり、この結果だけを研究全体の結論にしたりするのは早計です。
普段から不安の強い人については、要旨と本文・表の間に人数や平均値の記載の不一致もあります。そのため、そこで示された数値を確定的な効果の大きさとして採用することは避け、対象をあらかじめ定めた次の試験で確かめるべき手掛かりとして読むのが適切です。
実際の歯科医院で調べる難しさ
研究は、参加750人、評価可能705人を目指していました。しかし、実際の解析人数は486人でした。著者らは、調査時の感染症流行による職員不足や受診数の減少などで募集が進まず、差を捉えるための統計的な検出力が予定より下がったと説明しています。ただし、人数が足りなかったことだけで、もっと集めれば効果が出たと断定することはできません。
医院は4施設で、部屋の大きさや換気、待ち時間は一定ではありませんでした。調査時にはFFP2マスクの着用も義務づけられていました。実際にどれほどの香りを、どのくらいの時間感じたかにはばらつきがあったと考えられます。診療の現場で調べた強みがある一方、香りの届き方を揃えにくい研究でもあったのです。
一人ひとりの好みも条件に反映されていません。同じ森林の香りでも、心地よい記憶を思い出す人もいれば、苦手に感じる人もいるでしょう。また、精油そのものの作用と、歯科医院特有のにおいを覆ったことによる影響は区別できませんでした。著者らは、こうした個人差や心理的な体験を今後より詳しく調べる必要があると考えています。
医院の雰囲気と安全性にも残る問い
職員からは、香りで医院の雰囲気がよくなった、柑橘系を心地よく感じたといった感想が寄せられました。著者らはこれらも踏まえ、香りを不安への複数の対策の一つとして活用する可能性を述べています。ただし、職員の感想は、不安の質問票による比較とは別の種類の情報です。雰囲気の変化や患者への効果を客観的に確認した結果としては扱えません。
論文は精油の拡散に伴う有害事象の報告はなかったとしていますが、職員の感想をまとめた表には、香りが強すぎると感じた人や、森林系の香りを頭痛と結びつけた人の記述もあります。報告方法や記録の性質が異なるため、これをもって香りが誰にでも安全だと判断することはできません。心地よさだけでなく、苦手な人の反応も確認することが、次の検証には必要です。
研究はPRIMAVERA社から資金と精油・機器の提供を受け、HAAL ROSA社からも機器の提供を受けました。論文では、両社は研究の設計、実施、データの解釈、執筆に関与していないと説明されています。
まとめ
4つの歯科医院で486人を解析したこの研究では、香りを使った条件の平均の不安はやや低かったものの、全体では統計的に明確な差を確認できませんでした。混合精油や森林系の優位性、痛みの軽減も支持されませんでした。
著者らが見いだしたのは、女性などの追加分析や職員の感想を踏まえて、香りと不安の関係をさらに調べる余地です。実際の医院での香りの届き方、患者の好みや記憶、苦手な人への影響まで含めて検証する必要があります。香りを診療環境に取り入れる可能性は残りますが、歯科の不安や痛みに対する確立した治療の代わりにできると示した研究ではありません。
参考文献
著者:Judith Czakert, Farid I. Kandil, Hiba Boujnah, Pantea Tavakolian, Sarah B. Blakeslee, Wiebke Stritter, Henrik Dommisch, Georg Seifert
論文名:Scenting serenity: influence of essential-oil vaporization on dental anxiety – a cluster-randomized, controlled, single-blinded study (AROMA_dent)
掲載誌:Scientific Reports 14, 14143(2024年)
DOI:10.1038/s41598-024-63657-w
原著全文:Scientific Reportsの論文ページ/ドイツ国立図書館の公開PDF
権利表記:原著はCC BY 4.0で公開されています。


