セシル・マットン(Cécile Matton)──甘さに意外性を重ねる、手仕事の調香師

セシル・マットンのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル 調香師名鑑

「私は調香師になりたかったので、調香師になるために薬学を学びました。」

── セシル・マットン/『パルファンプラス(ParfumPlus)』のインタビューより、日本語訳

イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)の「ベビードール(Baby Doll)」、ヴィクター&ロルフ(Viktor&Rolf)の「ボンボン(Bonbon)」、エンポリオ アルマーニ(Emporio Armani)の「ストロンガー ウィズ ユー(Stronger With You)」。親しみやすい甘さを持つこれらの香りに、セシル・マットンの名前があります。

一方で、イチジクとキャビアという意外な取り合わせにも向き合い、イリスやインセンスを扱う作品も手がけてきました。その原点をたどると、香水瓶より先に、アフリカの市場や雨上がりの道路が現れます。

調香史

アフリカの記憶

マットンは、現在のコンゴ民主共和国にあたるキンシャサで生まれ、8歳までアフリカで育ちました。

幼い頃の記憶に残っているのは、暑さとともに濃く立ち上る、生活の匂いです。市場で新聞紙に包まれていた新鮮なピーナッツ。学校へ向かう途中のパン屋で、大きなステンレスの容器に入れられていた、焼き色の薄いバゲット。今でも白いパンを好むのは、その記憶があるからだといいます。

激しい雨が熱いアスファルトに落ちるときの、蒸気を含んだ匂いも忘れていません。そして最初の嗅覚の記憶として挙げるのは、意外にも蚊よけの薬剤です。当時、村の上空から散布されていたDDTの煙が、彼女の中に強く残っていました。

後年、皮革やシプレを思わせる香料、イソブチルキノリン(Isobutyl Quinoline)に出会ったとき、その匂いが子供時代の記憶を呼び戻します。母親の車に給油するときのガソリンの匂いにも惹かれていたと語っています。マットンにとって匂いは、初めから花や果実だけのものではなかったのです。

香水としての最初の出会いは、母親がまとっていたディオール(Dior)の「ミス ディオール(Miss Dior)」でした。現在の同名作ではなく、パチュリを軸にしたオリジナルのシプレです。グリーン・シプレを好む彼女の嗜好は、この身近な香りともつながっています。

調香師になるために薬学を学ぶ

10代になると、フランスの雑貨店ピア・インポート(Pier Import)で売られていたエッセンスを集め、自分で混ぜ合わせるようになります。ただし、最初からうまくできたわけではありません。本人は、その頃の出来栄えをあまり良くなかったと振り返っています。

調香師になりたいと考えたのは、14歳から15歳頃でした。初めて自分で買った香水には、ヴァン クリーフ&アーペル(Van Cleef & Arpels)の「ファースト(First)」を挙げています。それ以前には、ジャン・デプレ(Jean Desprez)の「バラ ヴェルサイユ(Bal à Versailles)」を贈られたこともありました。

そして彼女が選んだのは、工業分野を志向した薬学の勉強です。薬剤師の資格を得た後で、偶然香水に転じたわけではありません。冒頭の言葉にあるように、調香師になるための道として薬学を選びました。当時は香料産業と製薬産業の結びつきが強かった、と本人は説明しています。

ビオランド・テクノロジーズ(Biolandes Technologies)での研修では、化粧品向けのアロマテラピーと精油について研究します。この経験が、香水の世界へ進みたいという気持ちを確かなものにしました。

1992年、グラースにあるジボダン=ルール(Givaudan-Roure)の調香学校に入学。2年間学んだ後、パリでジャン・ギシャール(Jean Guichard)のアシスタントを1年間務めます。

初めに担当したのは、ニナ リッチ(Nina Ricci)やカルティエ(Cartier)の香りを、クリームや石けんなどへ展開する仕事でした。こうした実務を経験した後、マットンは自分の名前で香水を発表するようになります。

ジボダンからニューヨーク、そしてマンへ

初期の重要な作品が、ラルフ・シュヴィーガー(Ralf Schwieger)と共同で手がけた「ベビードール」です。1999年の発売とする資料があり、彼女を紹介する際に繰り返し挙げられる代表作となりました。2000年にはフィフィ賞(FiFi Award)を受賞したと紹介されています。

2000年代には、アメリカで働きたいという希望から、ニューヨークのインターナショナル・フレーバーズ&フレグランス(International Flavors & Fragrances/IFF)へ。その後フランスに戻り、2007年にマン(Mane)のパリの制作チームへ加わります。

2023年のフレグランス・ファウンデーション・フランス(The Fragrance Foundation France)のインタビューでは、マンでの仕事が間もなく16年になると語っています。同社ではシニア調香師として、セルジュ・マジュリエ(Serge Majoullier)やジュリー・マッセ(Julie Massé)らとも制作を重ねてきました。

2018年には、コスメティックマグ(Cosmétique Mag)のオスカーで年間最優秀調香師(Perfumer of the Year)に選ばれています。大手ブランドとニッチブランドの双方に作品を持ち、甘い香りだけにとどまらない仕事を積み重ねてきた調香師です。

手で作る人の調香哲学

マットンは、芸術家というより職人に近い調香師として紹介されることがあります。自宅でジュエリーを作る彼女にとって、素材を選び、組み合わせ、具体的な形へ仕上げる作業は、香水の外にも続いています。

好きな匂いを尋ねられると、ナツメグ、子犬、乾いていく洗濯物を挙げます。香料では、オーカノックス(Orcanox)をバニラと合わせたときの香り。そして、最も好きな香りの組み合わせとして挙げるのはグリーン・シプレです。天然の素材と合成香料、生活の匂いを隔てずに好奇心を向けるところが、彼女らしく感じられます。

仕事で大きな喜びを感じるのは、長く取り組んだ企画が採用されたときです。一方、日々の満足はもっと身近なところにあります。試作した香りに納得でき、それがブランドからの依頼にきちんと応えていると思えたときです。

「いちばん大切なのは、自分が作るものを誇りに思えることです。」

── セシル・マットン/2023年のインタビューより、日本語訳

開発に2年から5年を費やすこともあるといいます。その間、他の調香師とアイデアを交換し、香りを評価するエヴァリュエーターとも方向性を確かめます。一人の着想だけで完結させず、共通の言葉を見つけながら前に進む仕事です。

ディプティック(Diptyque)のキャンドルでは、カボチャの香りを求められたことがありました。ただし、シナモンで煮たアメリカ風のカボチャではありません。依頼は、畑で摘んだばかりの新鮮なカボチャでした。同じ言葉から思い浮かべる匂いが違う。そのずれを埋め、実際の香りにするところに、調香の難しさがあります。

新しい素材と向き合う

2023年の取材でマットンは、香水の年間発売数について、自身のキャリア初期の約150件から約3,000件へ増えたと述べています。これは当時の本人による説明ですが、依頼も競争も増え、複数の方向性を提示する仕事になったという実感が伝わります。

同時に、使用できる原料の変化も大きな課題です。規制などによって従来の素材が使えなくなると、別の素材を組み合わせて、その役割を補う必要があります。マットンは、代替を探すことと、新しい香りの形を作ることを、これからの調香師の課題に挙げています。

その仕事を支える技術の一つが、マンのジャングル・エッセンス(Jungle Essence)です。超臨界流体を利用した抽出法で、マットンは従来の方法に比べて環境への配慮があり、元の素材に近い匂いを得られる技術として説明しています。

同僚のマジュリエは、移動式の抽出装置を使い、パイナップル、ジンジャーブレッド、緑のピーマン、ヘーゼルナッツ、ココナッツなどの抽出に取り組んできました。持ち帰った試料は、グラース近郊のバル=シュル=ルーで工業化に向けた検証を受けます。知られている香りを組み合わせるだけでなく、使える素材そのものを増やしていく仕事でもあるのです。

代表作とその背景

ベビードール──果実と花の明るさ

「ベビードール」は、マットンの初期の仕事を語るうえで外せない一本です。シュヴィーガーとの共同調香で、資料によって発売年は1999年または2000年とされています。

果実の明るい香りから、ローズやフリージアなどの花々へ、そしてウッディな余韻へ進みます。資料間で細かな香料構成に違いがあるため、すべてを一つの配合表のようには扱えませんが、フルーティ・フローラルの若々しい印象は共通しています。

幼い頃から惹かれていたクラシックなシプレだけでなく、軽やかで親しみやすい香りにも向き合う。マットンの仕事の幅を示す、早い時期の代表作です。

ウーマニティ──イチジクの甘さとキャビアの塩気

2010年のミュグレー(Mugler)「ウーマニティ(Womanity)」では、マンの制作チームの一員として、甘さと塩気が共存する香りに携わります。

香りの専門誌『ネ(Nez)』の取材で本人が説明した制作の出発点は、ティエリー・ミュグレー(Thierry Mugler)がイチジクの木の下で海風に包まれた記憶でした。それを表現するため、イチジクの甘さにキャビアを思わせる塩気を合わせています。

マジュリエが開発したキャビアのジャングル・エッセンスが、この香りの組み合わせを作る助けになりました。シスタス・ラブダナムが塩気を帯びたミネラル感を支え、ピラジン類が水の中で育つ米を思わせる側面を添えたといいます。

ただ意外な素材を並べれば成立するわけではありません。マットンは、両者の均衡を取るために長く時間をかけたと振り返っています。「ウーマニティ」は、甘いグルマンの香りに塩気を持ち込む、当時としては大胆な試みの一つでした。

ボンボン──お菓子の記憶を香水にする

2014年、マジュリエと共同で発表した「ボンボン」では、甘さを正面から扱います。リボンをかたどったボトルについても、マットン自身が気に入っていると語っています。

『マリ・クレール(Marie Claire)』の取材を紹介した資料では、着想源の一つとして、フランスのお菓子カランバー(Carambar)が挙げられています。キャラメルの味だけでなく、包み紙に書かれた冗談まで含めた、親しいお菓子の記憶です。

キャラメルの甘さを、果実や花、サンダルウッドへつなぐ。「ボンボン」は、食べ物の香りをそのまま再現するだけでなく、肌にまとう香水として組み立てた作品です。

37 リュ ド ベルシャス──イリスと樹脂の陰影

2017年のイヴ・サンローラン「37 リュ ド ベルシャス(37 Rue de Bellechasse)」は、ジュリー・マッセとの共同調香です。

イリスを軸に、インセンスやウード、ムスクなどが重なる、ウッディで樹脂感のある構成です。「ボンボン」の親しみやすい甘さとは趣を変え、花の粉っぽい質感と、木や樹脂の陰影を扱っています。

同じ調香師の作品であっても、一つの香調に収まるわけではありません。マットンの職人的な仕事は、依頼ごとに異なる素材の表情を引き出すところにも見られます。

ストロンガー ウィズ ユー──一つの香りを育てる

2017年の「ストロンガー ウィズ ユー」は、マットンが長く関わるシリーズの出発点となりました。その後もレザー、ウード、アンバーなど、異なる側面を持つ派生作が続きます。

2023年の「ストロンガー ウィズ ユー アンバー(Stronger With You Amber)」は、オリジナルにつながる甘い印象を残しながら、アンバーとバニラの包み込むような温かさを前に出した作品です。

一作ごとにまったく別の香りを作るだけでなく、元の香りの個性を保ちながら変化させていく。クリームや石けんへの展開から仕事を始めたマットンの歩みと並べて見ると、既存の香りを別の形へ育てる仕事が、キャリアを通して続いていることが分かります。

ちなみに…

  • 自宅にはジュエリー制作のための小さなアトリエがあります。「ジュエリーを作る調香師」と紹介されることもあり、香水以外でも自分の手で作品を作る時間を大切にしています。
  • 2023年の取材では、編み物にも新たな情熱を見つけ、ニットのスタイリングに関する専門的な研修を受けたと語っています。ウール、コットン、リネンなど、天然素材を扱うことが好きだそうです。
  • 香りを嗅ぎ続けて鼻が飽和したときは、少し休み、ウールの匂いを嗅ぐことがあるといいます。同時に10〜20件ほどの香りを手がける、というインタビュー回答もあります。
  • 自分が作りたかった香水として挙げるのは、シャネル(Chanel)の「チャンス(Chance)」。歴史上の誰かのために香水を作れるなら、マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)を選んでいます。
  • 嗅覚を磨くための助言は、とても実際的です。何度も嗅ぎ、記憶を蓄積すること。香水は店内だけで判断せず、外の空気の中で、できれば肌につけて確かめてほしいと勧めています。

調香作品

以下は、公開資料に記載のある主な作品です。発売年は資料によって異なる場合があり、「ベビードール」は1999年、「ストロンガー ウィズ ユー インテンスリー」は2019年の表記を採用しています。共同調香師欄の「―」は、参照資料に追加の共同調香師名の記載がないことを示し、単独制作を断定するものではありません。

年 ブランド 作品名 共同調香師
1999 イヴ・サンローラン ベビードール ラルフ・シュヴィーガー
2001 アンディ・ウォーホル(Andy Warhol) マリリン ルージュ(Marilyn Rouge) ―
2002 ヴァレンティノ(Valentino) ヴァレンティノ ゴールド(Valentino Gold) アントワーヌ・リー(Antoine Lie)
2010 ミュグレー ウーマニティ マンの制作チーム
2010 エタ リーブル ドランジェ(Etat Libre d’Orange) ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker) ―
2013 ポメラート(Pomellato) ヌード ブルー(Nudo Blue) ―
2014 ヴィクター&ロルフ ボンボン セルジュ・マジュリエ
2014 ジョルジオ アルマーニ(Giorgio Armani)/アルマーニ プリヴェ(Armani Privé) ピヴォワーヌ スーチョウ(Pivoine Suzhou) ジュリー・マッセ
2014 ラリック(Lalique) エレガンス アニマル 1989(Élégance Animale 1989) ―
2015 エタ リーブル ドランジェ リマーカブル ピープル(Remarkable People) ―
2016 ビーディーケー パルファム(bdk Parfums) チュベローズ アンペリアル(Tubéreuse Impériale) ―
2017 エンポリオ アルマーニ ストロンガー ウィズ ユー ―
2017 イヴ・サンローラン 37 リュ ド ベルシャス ジュリー・マッセ
2018 ドルチェ&ガッバーナ(Dolce & Gabbana) ヴェルヴェット インセンソ(Velvet Incenso) ジュリー・マッセ
2019 エンポリオ アルマーニ ストロンガー ウィズ ユー インテンスリー(Stronger With You Intensely) ―
2019 バルデッサリーニ(Baldessarini) ブラック(Black) ―
2019 ビオテルム(Biotherm) オー フュージョン(Eau Fusion) ―
2019 4711/アクアコロニア(Acqua Colonia) コットン&アーモンド(Cotton & Almond) ジュリー・マッセ
2019 ベネトン(Benetton) ユナイテッド ドリームズ トゥギャザー フォーヒム(United Dreams Together for Him) ヴェロニク・ニーベルグ(Véronique Nyberg)
2020 エタ リーブル ドランジェ エグジット ザ キング(Exit the King) ラルフ・シュヴィーガー
2020 エンポリオ アルマーニ ストロンガー ウィズ ユー フリーズ(Stronger With You Freeze) ―
2020 エンポリオ アルマーニ ストロンガー ウィズ ユー レザー(Stronger With You Leather) ―
2021 エンポリオ アルマーニ ストロンガー ウィズ ユー アブソリュートリー(Stronger With You Absolutely) ―
2021 ディプティック ヴェニス(Venise) ―
2022 エンポリオ アルマーニ ストロンガー ウィズ ユー ウード(Stronger With You Oud) ―
2022 エンポリオ アルマーニ ストロンガー ウィズ ユー オンリー(Stronger With You Only) ―
2023 エンポリオ アルマーニ ストロンガー ウィズ ユー アンバー ―
2024 エンポリオ アルマーニ ストロンガー ウィズ ユー タバコ(Stronger With You Tobacco) ―
2025 エンポリオ アルマーニ ストロンガー ウィズ ユー パルファン(Stronger With You Parfum) ―
2025 エンポリオ アルマーニ ストロンガー ウィズ ユー サンダルウッド(Stronger With You Sandalwood) ―
2025 クロエ(Chloé) ノマド ルミエール デジプト(Nomade Lumière d’Égypte) ―

参考文献