「私は彫刻家になりたかった。石を加工するのも布を加工するのも、私には同じことです。」
— Madame Grès(マダム・グレ)
基本情報
設立年: 1942年(ファッションハウスとして)/1959年(パルファン・グレとして)
創設者: Germaine Émilie Krebs(ジェルメーヌ・エミリー・クレブス)、通称 Madame Grès(マダム・グレ)
公式サイト: parfumsgres.com
現在の運営: Lalique Group(ラリック・グループ)、スイス・チューリッヒを拠点とする
創設者・ブランドの成り立ち
彫刻家を夢見た少女の出発点
1903年11月30日、ジェルメーヌ・エミリー・クレブスはパリのフランス系ユダヤ人の中産階級家庭に生まれた。幼い頃から絵画・彫刻・ダンスに強い関心を持ち、なかでも彫刻家になることを熱望していたが、両親の反対によって断念せざるをえなかった。この「断念」が、奇しくも20世紀のオートクチュールに革命をもたらすことになる。
ファッションへの転身を決めた彼女は、1933年ごろ、パリの名門クチュールハウス「Premet(プルメ)」でわずか3ヶ月の修行を積んだ。この短い修業期間に服飾の基礎を習得したジェルメーヌは「Alix(アリックス)」と名を改め、その後、同僚のJuliette Barton(ジュリエット・バルトン)と共同で1933年に「Alix Barton(アリックス・バルトン)」を設立。翌1934年には「Alix(アリックス)」として独立し、パリ社交界に頭角を現し始めた。
1935年には、劇作家ジャン・ジロドゥの戯曲「トロイ戦争は起こらない」の衣裳デザインを手掛け、社交界・文化人の間で名声を広めた。そして1937年には、パリ万国博覧会のオートクチュール部門で最高賞を受賞した。同年4月15日、ロシア人画家Serge Czerefkov(セルジュ・ツェレフコフ)と結婚。この結婚によって彼女は「Alix Grès(アリックス・グレ)」と名乗るようになる。「Grès」はセルジュが絵画の署名に使っていた名前「Serge(セルジュ)」の部分的アナグラム——ほぼ逆綴り——である。
戦禍と抵抗、そして「グレ」の誕生
1939年8月、娘アンヌが生まれる。しかしセルジュはすでにフランスを去り、タヒチへと旅立っていた。1940年にナチス・ドイツがパリを占領すると、ジェルメーヌは幼い娘を連れてパリを脱出し、ピレネーへ避難した。この亡命生活の中で、美容師に行けなかった彼女がターバンをかぶり始めたことは有名なエピソードである。このターバンはその後、彼女の生涯を通じた「トレードマーク」となった。
1941年にパリへ戻り、自身のサロンを開設したジェルメーヌは、ナチスから「技術の秘密を開示し、布地使用の制限に従え」という圧力を受けた。しかし彼女はそれを完全に拒否し、1944年1月に閉店を命じられた。パリ解放の直前に再開が許可されると、彼女はフランス国旗の三色——青・白・赤——だけを使ったコレクションを発表し、静かな、しかし力強い抵抗の意志を示した。この伝説的なコレクションは今日まで語り継がれている。
1942年、ジェルメーヌはそれまでの「アリックス」という名前の権利を失い、パリ1区のリュ・ド・ラ・ペ(1, rue de la Paix)に新たなハウス「Grès(グレ)」を設立した。こうして、世界が「マダム・グレ」として知ることになるブランドが産声を上げた。
全盛期から悲劇的な晩年へ
1950〜60年代、マダム・グレのビジネスとデザインはともに全盛を迎えた。1959年には初の香水カボシャールを発売、これがブランドの代名詞となる。1972年にはフランス・オートクチュールの最高権威機関「パリ・オートクチュール組合(Chambre Syndicale de la Couture)」の会長に全会一致で選出され、1976年には同組合の最高賞「デ・ドール(Dé d’Or、金の指貫賞)」の初代受賞者となった。
しかし1980年代に入ると、事業は急速に傾いていく。ビジネスマン兼政治家のBernard Tapie(ベルナール・タピ)にブランドと商標を委ねたが、最終的に両方を失った。1982年には香水部門の権利を売却。1986年4月には会費未払いによって同組合から除名処分を受けた。そして1988年の春夏コレクション発表後、公式プレスリリースも出ないままひっそりと引退した。
1993年11月24日、マダム・グレは南フランスの療養施設で生涯を閉じた。享年89歳。しかし驚くべきことに、その死は娘アンヌによって13ヶ月間にわたって秘匿された。アンヌは後に「母への愛から」「ファッション業界への恨みから」と説明したという。フランス紙ル・モンドが1994年12月に報道して初めて、その死は世界に知られることとなった。生涯「スフィンクス」と呼ばれた女性の最後もまた、謎に包まれていた。
香水ブランドとしての「グレ」のその後
香水部門「パルファン・グレ」は1982年以降、複数のオーナーを転々とした。スイス人実業家のシルヴィオ・デンツ(Silvio Denz)が設立した「アート・アンド・フレグランス(Art & Fragrance)」は、2001年にライセンスを取得し、2007年にはブランド自体を取得した。現在の「ラリック・グループ(Lalique Group)」につながる同社のもと、スイスを拠点として、パルファン・グレのブランドは存続している。
1982年の香水部門売却後にリリースされたカボティーヌなどは、新たなオーナーのもとで展開された作品であり、創業者自身が主導した時代の香水とは制作体制が異なる。
ブランドのこだわり
「彫刻家」としての哲学
マダム・グレのものづくりの核心にあるのは、「布地であれ石材であれ、彫刻という行為は同じ」という信念である。彼女はスケッチだけに頼らず、生きたモデルの体に直接布を当て、ドレープ(drapé——布を体に沿わせて流す技法)とプリーツを施すという独特の制作方法をとった。そのため、一枚のドレスに13〜21メートルもの布地が使われることがあり、手縫いのプリーツだけで300時間以上を要する作品も存在した。
彼女の衣裳はシームレス——縫い目が目に見えない——なことでも知られる。シルクジャージーの折り目は精密に計算され、9フィートの布地がわずか2.8インチに凝縮されることもあったという。この技法が生み出す「動く彫刻」のようなシルエットは、古代ギリシャやローマの神像を思わせ、「ギリシャ的ドレス」と評された。
カボシャールのボトル——蝶結びという選択
初の香水カボシャールのボトルデザインにおいて、マダム・グレは蝶結び(ボウ/bow)を選んだ。これはファッションハウス・グレを象徴する意匠として採用されたものであり、現代版ボトルのガラス製アップリケの蝶結びへと受け継がれている。グレが香水ビジネスを離れた後も、このボトルデザインの精神はブランドのアイデンティティとして保持されている。
香水ラインナップ
カボシャール(Cabochard) ——グレの原点にして金字塔
1959年にリリースされたグレ最初のシグネチャー香水。「カボシャール」とはフランス語の古語「caboche(カボッシュ)」に由来し、「強情な」「意志の強い」という意味を持つ。このネーミングは、頑固なまでに自らの美学を貫いたマダム・グレ自身の性格を反映していた、とも言われる。
誕生の背景には、1950年代のインド旅行がある。テキスタイルの研究を目的としたこの旅でマダム・グレが触れたインドの植物・スパイス・海風の記憶が、香水のインスピレーションとなった。調香を担ったのは、後にクリニークの「アロマティクス・エリクサー」なども手掛けることになる調香師ベルナール・シャン(Bernard Chant)である。
実は当初、グレはGuy Robert(ギ・ロベール)に最初の香水制作を依頼しており、彼は「Chouda(チョウダ)」という、インドで出会ったホテイアオイの香りに着想を得たフローラル香水を完成させた。しかし市場のトレンドに合わないという理由でメイン商品には採用されず、代わりにシャンが手掛けたカボシャールがブランドの代表作となった。チョウダはごく限られた量だけが製造され、マダム・グレ自身も愛用したと伝えられている。
カボシャールのノートは、アルデヒド・タラゴン・ガルバナム・レモンなどのトップノートから始まり、イランイラン・ジャスミン・ローズ・オリスなどのミドルノートを経て、レザー・オークモス・タバコ・パチョリ・サンダルウッドなどのベースノートへと展開するレザー・シプレ(革×シプレ)の古典的名作である。その独特の「乾いたエレガンス」は、シャネルやジバンシーをはじめ多くのブランドに影響を与えたとされる。
なお、マダム・グレ自身はカボシャールよりもチョウダを好んでいたと伝えられている。
カボティーヌ(Cabotine) ——1990年代のフレッシュな「娘」
1990年にリリースされたカボティーヌは、カボシャールの「娘」的フレグランスと呼ばれることもある。名称は「女優」または「お調子者の女性」を意味するフランス語で、多彩な表情を持つ女性像を表している。
マンダリン・ジンジャー・イランイランのトップに始まり、ジンジャーリリー・チューベローズ・ヒヤシンスのフローラルハートへ、最後はパチョリ・サンダルウッド・ムスクのベースで締める。カボシャールの重厚な革の世界とは対照的に、明るくフレッシュなフローラルが特徴である。緑色の丸みを帯びたフラコンが印象的で、その外観も香りの方向性を体現している。カボティーヌはその後、数多くのフランカー(派生版)が展開された。
フォリ・ドゥース(Folie Douce)、カバレー(Cabaret)以降
1997年発売の「フォリ・ドゥース」は、レモン・ミモザ・ブラックカラントのトップ、ヘリオトロープ・アイリス・イランイランのハート、サンダルウッド・バニラ・ムスクのベースからなるフローラル系。2003年には「カバレー」が調香師ミシェル・アルメラック(Michel Almairac)によって制作され、ローズ・スズラン・バイオレット・インセンスなどの清潔感あるフローラルノートが評価された。
2013年には「マダム・グレ(Madame Grès)」という名のフレグランスも登場した。これはブランドの源流であるクチュールメゾンへのオマージュという位置づけである。
その後も、ラリック・グループ傘下においてカボシャールとカボティーヌを軸としたフランカーを中心に展開が続いている。
ちなみに…
- マダム・グレのニックネームは「ファッションのスフィンクス(Sphinx of Fashion)」。メディアへの露出を極力避け、「私のドレスを見てください、他に見るものは何もありません」と繰り返したとされる。
- かつてニューヨーク・タイムズは彼女のクチュールハウスを「ヨーロッパで最も知的な洋服を買う場所」と評した。
- グレのドレスを愛した顧客には、マレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、グレース・ケリー、ウィンザー公爵夫人、ジャクリーン・ケネディなどが名を連ねる。
- ブランド名「Grès(グレ)」はフランス語で「砂岩」も意味する。夫の名のアナグラムであると同時に、砂岩が持つ硬質な強さも象徴していた——との指摘もある。
- ファッション史家や批評家の間では、20世紀の「3大クチュール・アーティスト」として、グレ、マドレーヌ・ヴィオネ、クリストバル・バレンシアガが挙げられることが多い。
- 2026年5月15日〜10月11日には、ベルリンのクンストゲヴェルベ博物館(Kunstgewerbemuseum)で「メニー・シェイズ・オブ・グレ:ファッション・ビカムズ・アート(Many Shades of Grès: Fashion Becomes Art/グレの多彩な姿:ファッションが芸術になる)」と題した展覧会が開催されている。25点の衣裳と古代・ビザンチン美術を並べ、グレの作品が工芸品としても芸術品としても評価されることを示す試みとなっている。
参考文献
- Madame Grès – Wikiwand
- Madame Gres interview, 1978, 1978 | ArchivesSpace Public Interface
- Madame Grès
- Grès Cabochard Chérie eau de parfum for women | notino.co.uk
- Madame Grès – Wikipédia
- Madame Grès: The Sphinx of Fashion | DailyArt Magazine
- Designer Spotlight: Madame Gres – Investment Piece
- Grès, Parfum Grès | Olfastory
- Grès – Wikipedia
- Counterpoint: Cabochard
- Madame Gres; Noted Figure in Fashion Design
- Fashion designer Madame Grès unveiled by her granddaughter in a new biography
- Gres Perfumes
- Silvio Denz – Wikipedia
- Lalique Group rebrands perfume and cosmetics business
- Group History
- Parfums Gres Cabaret ~ fragrance review – Now Smell This
- Grès Perfumes Colognes Reviews and Information
- Madame Grès: The sculptress of fabric who influenced us
- The Fashion Historian: Madame Grès
- Parfums Gres Cabochard New and Vintage : Perfume Review
- Perfume Shrine: Lament for a Fragrance in Sepia ~Cabochard by Gres
- Composition Eau de parfum Cabochard Grès
- Parfums Grès CABOCHARD vintage parfum – Fragrance Vault
- Perfume Reviews by Varanis Ridari– Basenotes
- Chouda, Madame Grès' Secret Sillage – Grain de musc
- Cabotine Eau de Parfum GRÈS | Parfumerie Burdin
- Gres :: Perfume Houses – Now Smell This
- In which I admit to loving Cabotine de Gres – I Smell Therefore I Am
- Cabotine de Grès – Eau de Parfum
- Folie Douce Perfume
- Grès | Gres Perfumes | notino.co.uk
- OBITUARIES : Madame Gres
- Many Shades of Grès: The Pleats That Redefined Fashion
- ガリエラ美術館・マダム グレ回顧展
- ベルリン国立博物館・メニー シェイズ オブ グレ展
- ラリック グループ公式・会社概要
- アート アンド フレグランスの株式公開発表と取得履歴


