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title: "Edmond Roudnitska<br>エドモン・ルドニツカ"
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date: 2021-10-24
modified: 2022-09-04
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# Edmond Roudnitska<br>エドモン・ルドニツカ

## 生い立ちと訓練

> 芸術とは本能的に感動させるか、あるいは知性の面で感動させるので、ある時には両方で感動させるがそうなればすばらしい。エドモン・ルドニツカ

　1905年3月22日フランスのニースに、エドモン・ルドニツカは生まれました。父はロシアの役人であり、ウクライナから亡命してきた家系でありました。

　1926年、「本当はオペラ歌手になりたかった」と言うルドニツカは、グラースの[ルール社](https://lechercheurdeparfum.com/givaudan)で原料を分析するラボに弟子入りします。最初は文化や芸術にはあまり興味がなく、スポーツに情熱を持っていましたが、Leon Chiris（揮発性溶剤による抽出法で特許をとった人）と3か月過ごし、コンポジションのテクニックと香水のベースの精神を学び、調香師になることを決意しました。そして、その後、**Ernest Beaux**（シャネルの初代専属調香師、No゜5の作者）の下で勉強します。グラースで1年過ごしたのち、パリの近くのArgenteuil（アルジャントゥイユ、ルール社の本部があった）でコンポジションについて、さらに学びます。

　ルール社で7年過ごした後、1935年、(https://www.symrise.com/scent-and-care/blog/the-legacy-of-de-laire-bases/)（現在はシムライズの一部）に雇用され、香水のベースを作る仕事に就きます。当時、合成香料が出始め、ゲランのジッキー（1889）を機に、様々な香水に用いられるようになっていた時代でした。しかし、調香師たちにとっては、まだ合成香料は非常に扱いづらい香料でした。そのため、De Laireのような会社は、合成香料をより使いやすくするために、合成香料を含んだベースの開発を行っていました。

1876年に創業したDe Laireは、最初に合成香料のベースを作った会社です。1889年**Ambre83**（バニリンを中心にベチバーやパチョリ、ジャスミンをブレンド）を生み出し、ゲランのジッキー（1889）に使われました。他にもPrunol（ディオレラやルパルファムドゥテレーズに使われている）やBouvardia、Mousse de Saxe（ローズ & キュイールに使われている）といったベースを生み出しており、後年、ルドニツカはよくこれらのベースを使っていました。

## 伝説の始まり

　ルドニツカは、François de Laire（De Laireを作ったGeorge de Laireの跡継ぎ）と仲が良く、彼のおかげで文化、アート、絵画、音楽に段々と興味を持ち始めます。この時代に美や哲学、思想家に関する本を読み始め、モンターニュ、モンテスキュー、アンリ・デラクロワ、アンリ・ベルクソンなどを読んでいました。これが彼の哲学的な調香スタイルに影響を与えていると考えられます。

　1938年、De Laireの香水業界の製品のリーフレットの執筆に参加します。このとき、ルドニツカは、すでに数百のベースや化学成分をマスターしていました。また、ルドニツカの描いた最初の記事が、「Parfums de France」に掲載されます（彼はこれを機に香水業界や哲学、思想の記事を多く執筆していくことになる）。
　また、同年、ルドニツカの最初の香水、It’s you（エリザベス・アーデン）が発売されます。

　1942年、De Laireで働いていた化学者（後の妻）Thérèse Delveaux（テレーズ・デルヴォー）と出会います。彼女は薬剤部門で働いていました。若く、ファッションに夢中であったテレーズは、ルドニツカの影響もあり、香水を色々と嗅ぎ始めます。2人はバイクに乗って遠くの森までスズランを取りに行ったり、本屋に行ったり、オペラを見に行ったりしました。このころ、ルドニツカは、カントを読んでいました。

　1945年から、カントの”Aesthetics（美）”に関する批判的なエッセイを組み合わせ、自身の理論を作り始めます（これは31年後に発表される）。

「調香師としてルドニツカの仕事に意味を与えることは、美に関する理論や人生哲学を主張することであり、それがルドニツカの目的でした。」

（Jean Claude Ellena）

　1944年、RochasのFemmeを発表し、一連のシリーズ、Mousseline（1946）、Mouche（1947）、Moustache（1948）、La Rose（1949）を調香します。

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★Femme（ファム、ロシャス、1944）

　1925年、Marcel Rochas（マルセル・ロシャス）がパリに最初のクチュリエのお店をオープンしたとき、まだ彼は22歳でした。彼は元々、法律家になりたかったため、興味はなかったのですが、恋に落ちた1人目の妻が良い洋服が好きだったため、一緒に仕事をすることにしたのです。ちなみに、彼はスカートにポケットを作った最初のデザイナーでした。

　時は過ぎ、1943年、彼は2人目の妻となる女性に出会います。それが当時18歳だったHelene Rochasでした（マルセルは40歳！）。

「彼は当時、戦争のため、お店を閉めようか考えていたの。そんなときに私に出会って、私は家族をもつという考えを提案したの。そしてすぐに2人の子供ができ、私は妻になり、彼のモデルであり、インスピレーションにもなったわ。何か新しいことをする勇気も与えたしし、人生において大事な彼のメンターになったわ。マルセルに出会ったときは、まだ若い小娘だったけど、それから私は大人の女になったの。」（Helene Rochas）

　しかし、ベルナール・アルノーやマルセル・ブサックのような支援者もいなかったので、お金も無く、でも妻にプレゼントが欲しかったマルセルはこう言いました。「君のために香水を作りたい」と。マルセルは常に、女性にとってファッションとフレグランスは切り離せないと知っていました。なので、1936年からサロンで香水も販売していました。

　Femmeのアイデアは以前からロシャスの頭の中にあり、Albert Gossetによって実現されることになりました。マルセルは香水の精神であり、Gossetはエンジンでした。

　まず香水を始めるときに、シャネルのように香水のラインを作ろうと考え、Femmeはその最初の香りでした。そして、マルセルとGossetが作ろうとしていたものをルドニツカに話した時には、すでにルドニツカはその香りを作っていたのでした。

　1943年11月、2人はルドニツカと出会います。2人はフランスクチュリエの再生のトレードマークになるような香りを求めており、ルドニツカはその年にずっと作っていた唯一の香水を手渡しました。

　Femmeは、メチルイオノンによる貴重なプルーンの香りによって色気を持っていました。ルドニツカは、それが今まで香水で使われたことがないのを発見し、使ったのです。このプルーンノートをオークモス、ピーチのアコードで包み込みました。

「私はFemmeを作る際、シュガーのような甘いノートと調和させるためにとてもフルーティーにし、そのフルーツをトーンダウンさせるためにウッディを入れ、力強さと豊かさを与えるためにアルデヒド調の香りを入れ、そして、とてもフローラルにしました。最初は自分のために作っていたので、Femmeと呼ばれるとは知りませんでした。」（Edmond Roudnitska）

　そして、1944年12月、Mae West（メイ・ウエスト）のお尻からインスパイアされた（マルセルは引き締まったウエストと丸いお尻を持つ女性に目がなかった！！）ラリック製のボトルに詰め込まれたFemmeの限定バージョンが発売され、大成功をおさめるのでした。これにより、ロシャスはフランスで、最も大きな香水ブランドとしてみなされるようになります。

「私は自分の香水がこれほどまでに売れ、認められるとは思いませんでした。そのとき私はFemmeは香水ではないと思ったんです。そう、それはとても特別なものだったのです。」（Edmond Roudnitska）

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　1946年、RochasのFemmeの成功で余裕ができたルドニツカは、Art et Parfumというラボラトリー（兼会社）をカブリスに作り、世界で初めて独立した調香師になりました。テレーズがサポートし、製造過程やセールスマネジメントを担当していました。ちなみに、ここにはTの字型のプールがあり、テレーズを讃えて作られています。

　1947年、セルジュ・エフトレー・ルイシュとクリスチャン・ディオールに出会い、すぐに友達になり、その友情の証としてDiorama（1948）を調香します。これを機会に、ディオールの香水をいくつも発表します。

　1948年、息子のMichelが生まれます。

　1949年、カブリスに移り、香水業界と美に関するたくさんの記事を描き始めます。また、より厳格で純粋な調香スタイルに変わっていき、フォーミュラはよりシンプルになっていきました。

　1951年、5月には、ソルボンヌ大学で香水が芸術であるための必要条件について講義をしました。

「嗅覚は最も高い次元の美的感覚であると認識することをためらわないでください。」

（Edmond Roudnitska）

　また、同年、Emile Hermesの協力のもと、エルメスの初の商業用香水Eau d’Hermes（オードゥエルメス）を発表します。これはエルメスのハンドバッグの香りを捕らえたものでありました。

　1955年、DiorでEau Fraicheを発売します。このとき、セルジュの指示は、コティのシプレにインスパイアされた香水を作ってほしい、だけでありました。このDiorのEau Fraicheによって香水のカテゴリーにオーフレッシュという項目が加わったのです（オーデコロンより持続時間が長く、オーデトワレよりは短い）。

　翌年、Diorissimoが発売されます。

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★Diorissimo（ディオリッシモ、ディオール、1956）

　19世紀末に合成香料が香水に使われるようになって以降、香水業界は現代的になり、多くの調香師が合成香料を大量に使うようになっていました。特に、バニラ、フルーティー、シュガーといったノートは多く使われていました。しかし、そういった甘くスウィートな香りを使えば使うほど、香水は嗅覚ではなく、味覚を刺激する香りに終わってしまうのでした。ルドニツカは、そんな業界に耐えられず、44年のFemme、53年のオーフレッシュ（Dior）でそれに対する行動を起こしていったのです。

　ルドニツカの哲学は、単に自然に帰すというだけではなく、香水の構造をよりシンプルにするということにもありました。当時、香りが食べ物の方向に向かっているだけでなく、多くの成分を入れ、より複雑でごちゃまぜになった香りになっていたからです。このことがよりルドニツカのシンプルさに拍車をかけました。

「Diorissimoはパイオニアでした。その後作る私の香水は、すべて”simplify, simplify, simplify”というモットーに執着したものでした。私にとって、シンプリシティとは、どんな分野においても、芸術家の凝縮のようなものです。才能の頂点に達したときだけ、芸術家は自身の作品をよりシンプルにすることができるようになるのです。」（Edmond Roudnitska）

　ルドニツカは、まず、市場に出ている新しい合成香料を分類し、使われすぎているものはよりフレッシュで、より軽く、より透明感のあるものに替えました。そして、フレーバーに近くなるような香りは避け、より自然に近づけるような香りとフォーミュラをシンプルにできそうな香りを選んでいきました。その時に見つけたのが、スズラン（lily of the valley）のアコードでした。ルドニツカの庭にはスズランが咲いており、毎年、春になると香りを嗅ぎ、数年かけてスズランのアコードを生み出しました。

　ルドニツカはディオールの家があったグラースのLa Colle Noireで開かれたあるディナーの際、クリスチャン・ディオールにその試作をプレゼントしました。それは、1947年に、クリスチャン・ディオールとセルジュ・エフトレー・ルイシュと知り合って、数年後のことでした。

「Diorissimoはスズランの束からつくられる香りで花だけを喚起するものではありません。なぜならそこには下草、露、田園の自然などの背景がそのまま調和してみられるからです。自然のなかにはスズランから抽出されるエッセンスも、それに近いものもないので、スズランの香りとは直接の関係はまったくない、互いに異質な諸要素から、つくり上げねばなりませんでした。」（Edmond Roudnitska）

　ディオールにとってスズランは幸運のシンボルであり、特別な力を持つ花でした。そして、ディオールは、迷信家で、占いを熱烈に信じてもいました。なのに、自分がカトリック教にもかかわらず、日曜の礼拝は嫌いで、予言などには懐疑的でした。1919年、ディオールがまだ14歳のころ、家の近くでバザールがあり、そのときたまたま占い師が近くにいて、手相占いをしてくれました。そこでこう言われたのです。「あなたは貧困に苦しむでしょう。しかし、女性はあなたに幸運をもたらし、彼女たちによってあなたは成功します。そして、大金を手に入れ、世界中を旅するでしょう。」と。実際に、その通りになったディオールにとって、占い師はいつでも助けになりました（どんな時もその占い師に相談していた！）。そして、ディオールが亡くなった際、棺はスズランで完全に覆われていました。

　ディオールの訃報を聞き、スズランで囲まれた棺を見たルドニツカは胸が詰まる思いでした。なぜなら、そのときやっと、ディオールにとってスズランがどれほどの意味を持っていたかを知るからです。

「香水の歴史全体を見渡してみると、ディオリッシモは生き残っている唯一のモノフローラルの香水です。モノフローラルの中でも、バイオレットやラベンダーは大衆にはなじみ深いが、とてもチープです。より洗練されたモノフローラルになると、ガーデニアやナルシスになりますが、有名な香水は時代遅れな構造になっています。唯一成功した生き残りのディオリッシモは、とてもなじみ深い香りでありながら、シンプルではなく、とても複雑で、多くの面を見つけることができます。それは、とても分かりやすいスズランのアコードに、ジャスミンやボロニア、他の洗練された香りのするアコードがアクセントとして入っているからです。これはルドニツカの天才性によるものなのです。」（モーリス・ロジェ）

「最初、私はスズランのノートを研究していましたが、同時にヒヤシンスのノートも研究していました。そのグリーンなノートのおかげで、スズランの香りはより自然なものに近づきました。私はコティがMuguet des Bois（1941, Henri Robert）というスズランの香水を出しているのを知っていました。そのスズランの香りは、これ以上ないほど素晴らしく、どうやってこれを30年代に作ったのか疑問に思っていました。しかし、それは全く成功しませんでした。なぜなら纏える香水ではなかったからです。同じトラップにひっかからないよう、私は香水になるように作りました。そして、庭に春の雨が降ったような爽やかでこの世とは思えない香りになったのです。」（Edmond Roudnitska）

　初回、60個限定で作られたDirissimoは、バカラ製のボトルに入れられ、ディオールのシグネチャーでもあるパールがあしらわれ、ゴールドメッキのブロンズの花のブーケのキャップがつけられました。

「『ディオリッシモ』ほど、匂いと香りとの違いを見事に表現している香水はない。この香水の由来はスズランの匂いだが、調香師にとって究極の仕事とは、こうした単一の匂いを香水に仕立て上げることではないかね。たとえば、自然からある匂いを受け取ったとする。われわれは感覚を働かせ、その匂いを読み解く。それなりに知識はあるから、その匂いを再現することはできる。そうやってテーマやヒントを得たら、今度は、それに自分自身のなにかを付け加える必要がある。それは自分の欲望だったり、一番複雑なところでは自分らしさだったりする。」（Jean Claude Ellena）

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　1966年、DiorでEau Sauvageを発売します。これはHedioneが初めて使われた香水であり、男性用の香水の幅を広げただけでなく、多くの女性もまた使った香水でした。

「『オーソバージュ』を成功に導いたのは、合成香料のへディオンであると言われがちだが、その見解は誤りだ。『オーソバージュ』の主体はバジルであって、へディオンを多少足し引きしたところで変わらない。アンリ・ロベールは、『クリスタル』（シャネル、1974）を創作したときに、『オーフレッシュ』ではなく、『オードバジル』と説明していた」（モーリス・ルーセル）

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★Diorella（ディオレラ、ディオール、1972）

　前世代の調香師に影響を与える素晴らしいオリジナリティを持つ香水がかつて現れました。1つ目は、Chanel No゜5（1921）、2つ目は、Shalimar（1925）、そして3つ目はDiorellaでした。

　Diorellaは、並外れたフローラルで、神秘的でありながらロングラスティングな香りです。重さを全く感じない爽やかさがシトラスと熟したフルーツの香りによって生み出され、ジャスミンとハニーサックルが春の明るさと太陽の温かみを描きます。この香水は最初のフルーティーフローラルの香水でした。

　60年代、70年代は時代の転換期で、Diorにとっては、Eau Sauvageが思いもよらず男性と同じくらい多くの女性に使われました。それはルドニツカが生み出した流れでした。そして、Diorellaは女性バージョンのEau Sauvageと呼ばれました（ルドニツカはそうは思っておらず、むしろ1953年のEau Fraicheの進化系だと考えている）。

「もしEau Sauvageの娘がDiorissimoだとすると、Diorellaの構造はDiorissimoのひ孫になるだろう。Diorellaは全く別のフォーミュラを組み替えているんだ。」（Edmond Roudnitska）

　1956年に生み出したDiorissimoがルドニツカの新たな哲学の先駆けになり、1966年のEau Sauvageで顕著に表れ、そしてのこのDiorellaでついにその表現は熟しました。Diorellaのアイデアは20年近くルドニツカの頭の中にありました。まず、ジャスミンをオーバードーズし、面白味を加えるために、オークモスの温かみと対照的に完熟したフルーツのノートを加えます。そして、DiorissimoとEau Sauvageで生み出したテクニックでそのアコードを軽く、爽やかにしました。これによって、温かみと冷たさ、大胆さとシャイさを両立させた香水を生み出したのです。

「Diorellaは、私が作った作品の中で最も誇りに思っているクリエイションです。これは本当にとてもとても美しい香水です。」（Edmond Roudnitska）

　光が鏡に反射しているかのような銀のフレームと透明なガラスで作られたボトルデザインは、Serge Mansau（セルジュ・マンソー）によって作られました。

「仕事が終わりに近づいたとき、ルネ・ブルドンが私に会おうと言ってきたんだ。『セルジュ、お金の話をしようか』。私はこう言った『これ以上は減らせないよ。すごくコストがかかったんだ。もし払える額以上なら、ロールス・ロイスは見るべきじゃないね』。『違うよ、セルジュ、この請求書を書き直そう。君はこの額の2倍受け取るだけの仕事をしたんだ。それが私の払う金額だ』。こんなことはもう二度と起こらなかったよ。」（Serge Mansau）

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　1974年、シャネルの専属調香師Henri Robert（1899-1987、1952年からシャネル）とともにCristalle EDTを調香します。

　晩年は、執筆業に勤しみ、「The Intimacy of the Perfume」、「To train the men, myth or reality?」、「The Aesthetics in Question」、「The Perfume（日訳：香りの創造）」といった本を執筆します。そして、香水の肖像権（つまり、香りはアートであり、決してコピーしてはいけないものであると考えていた）を主張し、香水を守ろうとしていました。

　1990年、ルドニツカ最後の作品Ocean RainをValentinoから発表します。

　1996年6月17日、91歳で生涯を閉じます。Art et Parfumは、息子のMichelと妻のThereseが引継ぎました。

　2004年、Olivier Maureが独立した調香師やニッチブランドを支援するためにAccords et Parfumsという工場をArt et Parfumの近くに作ります。最高品質の香料や、フォーミュラを作るためのパソコン、データベースやソフトウェアもあり、そこで香水を作っているブランドは、ラルチザン（80％のコンポジションはここで作られている）、フレデリック・マル、ジャンパトゥ、パルファムドゥシタなどになります。
